シェアリングと付喪神

シェアリングが一層進みそうな気配である。

車も部屋も自分が使わない時間を誰かに有効利用してもらう。

およそ「モノ」という「モノ」をその時間だけ借りる。

そうした感覚を私に感じさせたのはブックオフだった。

当然その前に古本屋があった訳だが本を売ったのはブックオフが初めてだった。

それ以外にあったとすれば車の下取りがあったくらいだ。

それが、電気製品、カメラ、貴金属と間口が広まった。昔からの質屋さんは困ってカネを借りるのが主たる目的であったような気がしていてお世話になったことはない。

「モノ」が増えすぎたので使用することに価値があり所有する事の価値が低くなったということだろう。

カメラは数台持っている。親父の形見ともいえる二眼のフィルムカメラ、若い時に買ったズームレンズのついた一眼レフこの頃は多分一生モノとして買ったような気がする。十年以上鞄に入ったままだ。

デジカメになり、すぐに買ったが電池が持たず、また年々高性能になるので買い替えて使ってきた。

これはもう消耗品だった。

 

人がこれから大切にしてゆくのはモノではなく、経験だ。・・・・・・頭ではわかっている。

自分にとって本は特別で、昔バイト料の大半をはたいて買った数冊の五木の本を自慢したら、「読み終わったら貸して」とその頃の友人に言われ貸したら帰ってこない。

友人曰く「友人の友人にあげちゃっただって読み終わった本なんていらないだろ」・・・今でも五木を覚えているというのはよほどその時の本を返して欲しかったというか、自分には忘れられない事だったと思う。

断捨離・・・読んでしまった本がまだ本棚にあるのはもう一度読むかもしれないとかすかに思いながら、背表紙が何かを語っているからなどという積極的判断を拒否する気持ちが取捨選択を迫る。

 

結局、今五木を読むことはないだろうし、本もまとめてブックオフに持ってゆく事になれた。

 

残るのは本でも友人でもなく、経験だ。

さてそれでも手元に残るのは何か?

それは経験が残した「モノ」だろう。本当のところどう思われているか知らないが、こちらからは友人、背表紙で語る本、

親父の家の庭に咲いていた百日紅、禁煙を誓った時のクリスタルの灰皿、そして本というひとまとめのグループ.

本はグループを築いていて増えながら総量としては限界を保ち入れ替わってゆく運命にある。

経験が残した「モノ」の多くはあるだけで良いと思え、役立つかどうかはあえて問わない。

そんな小さな空間が必要だと主張はしないがそっと持っている。

子供が一時抱いて寝るおもちゃのようなものだ。

そんなものには付喪神がついているのかもしれない。

具体的にその一つの「モノ」に対してどれだけ愛着が持続するか判らないほどあやふやだし、「モノ」は壊れることがある。

それでも、愛着のある「モノ」が一つもない世界には住めない気がする。

 

シェアリングを若い時から経験している人たちはそうした「モノ」への関心が薄れるだけではなく、無くなるのではないかと想像している。

もっと抽象的になれるし、新しい経験が増える。