ブレンディのミルクコーヒーのCMがネットで話題になっているそうです。海外でもツイッターやブログに投稿してる人がいるとか。
高校の卒業式の風景、生徒はみな鼻輪をしています。名前ではなく番号で呼ばれ、壇上で一人ずつ卒業証書を手渡されます。卒業証書には卒業後の進路が書かれていますが、進路は本人も親も知らされていない感じで、そこに書かれた文字を見て、喜ぶ者と悲しむ者がいます。
映像を見て行くうちに、ミルクコーヒーのCMという事もあり、これは牛を擬人化して「牛が牧場から出荷される時の気持ちを想像してみた」的な、コメディだと言う事が分かってきます。ドコモのCMで渡辺謙さんがスマホを演じていましたが、あれと同じ表現手法だと思います。
ただしスマホと違って牛ですから、出荷されたら殺されて食べられる事もあります。進路に「肉屋」と書かれた卒業証書を受け取った生徒は、怒ったり泣いたりしますが、最終的には定められた自分の進路を受け入れざると得ないという、ちょっとブラックな映像になっています。
このCMについて話題にしている人の多くは、制作者とは全く逆の解釈をしたようです。つまり、映像に出て来る高校生を「擬人化された牛」ではなく「家畜化された人」と。そして「人間が番号で管理されて、職業選択の自由もない近未来社会」と。そうなるともうサイコホラーですね。
CMの最後は胸の大きな女子生徒が「がんばっていい乳出せよ!」と先生に励まされます。これを人として見たら、セクハラというか人身売買というか、まあとんでもない人権蹂躙ですね。
でも、これを牛として見れば、この先生は飼育員で、つまり愛情込めて育てた牛を温かく送り出す、ほのぼのとしたシーンになります。言葉を理解するはずのない牛に「がんばれよ」と声をかけるのは、ちょっとコミカルでもありです。それだけ愛情込めて育てたということでしょう。
見る人の解釈によって映像の中身がここまで正反対に違ってくるのは、アートとしては面白いと言えますが、まあコマーシャルとしては失敗でしょう。
ところで。制作者の意図通り「擬人化された牛」と解釈されたとしても、論争は起こりそうです。つまり、「牛が可哀相だ。」とか「自分の意志に反して殺されて食べられるなんて理不尽だ。」と言う意見が出るのではないか、と思うのです。
あのCMのように、もし牛に人間並の知能があったら、確かに食べてはいけないんじゃないの?と考えても、おかしくないと思います。
でも、もし「知能が高い生き物は食べてはダメだ。」とか「知能が低い生き物は食べてもいい。」となったら、何らかの事情で知能が低い人間は、殺しても食べてもいいって事になってしまいます。あるいは知能が低い人間は、他の生き物に食べられてもOKと言う事になってしまいます。知能が低い人間は、食べられてもいいのでしょうか?
とんでもない。知的障害者も認知症患者も殺してはダメです。殺されたり他の生き物や人間に食べられてOKなわけがありません。人間が勝手に決めた事かもしれませんが、全ての人間に人権があるのです。
そしてつまり人間に人権があるのは「知能が高いから」ではなく「人間だから」なのです。生き物の、食べられてOKかOKじゃないかの境界線は「知能が高いか低いか」ではなく「人間か人間以外か」という所にあるのです。
そんなわけで「イルカは人間並に知能が高いから食べてはいけない。」という主張は、とんだ的外れだと言う事です。イルカは「人間以外の生き物」ですから、食べてもOKなのです。
そして、食べるか食べないかは、食べる人が決める事であって、食べない人がとやかく言う問題ではありません。
中国人が犬を食っても僕は中国人に「可愛いワンちゃんを食べるなんて野蛮だ!」とか言いません。中国人が何を食べるかは中国人が決める事であって、僕には関係ないからです。
もちろん僕が何を食べるかは僕が決める事です。僕は犬もイルカも食べません。
高校の卒業式の風景、生徒はみな鼻輪をしています。名前ではなく番号で呼ばれ、壇上で一人ずつ卒業証書を手渡されます。卒業証書には卒業後の進路が書かれていますが、進路は本人も親も知らされていない感じで、そこに書かれた文字を見て、喜ぶ者と悲しむ者がいます。
映像を見て行くうちに、ミルクコーヒーのCMという事もあり、これは牛を擬人化して「牛が牧場から出荷される時の気持ちを想像してみた」的な、コメディだと言う事が分かってきます。ドコモのCMで渡辺謙さんがスマホを演じていましたが、あれと同じ表現手法だと思います。
ただしスマホと違って牛ですから、出荷されたら殺されて食べられる事もあります。進路に「肉屋」と書かれた卒業証書を受け取った生徒は、怒ったり泣いたりしますが、最終的には定められた自分の進路を受け入れざると得ないという、ちょっとブラックな映像になっています。
このCMについて話題にしている人の多くは、制作者とは全く逆の解釈をしたようです。つまり、映像に出て来る高校生を「擬人化された牛」ではなく「家畜化された人」と。そして「人間が番号で管理されて、職業選択の自由もない近未来社会」と。そうなるともうサイコホラーですね。
CMの最後は胸の大きな女子生徒が「がんばっていい乳出せよ!」と先生に励まされます。これを人として見たら、セクハラというか人身売買というか、まあとんでもない人権蹂躙ですね。
でも、これを牛として見れば、この先生は飼育員で、つまり愛情込めて育てた牛を温かく送り出す、ほのぼのとしたシーンになります。言葉を理解するはずのない牛に「がんばれよ」と声をかけるのは、ちょっとコミカルでもありです。それだけ愛情込めて育てたということでしょう。
見る人の解釈によって映像の中身がここまで正反対に違ってくるのは、アートとしては面白いと言えますが、まあコマーシャルとしては失敗でしょう。
ところで。制作者の意図通り「擬人化された牛」と解釈されたとしても、論争は起こりそうです。つまり、「牛が可哀相だ。」とか「自分の意志に反して殺されて食べられるなんて理不尽だ。」と言う意見が出るのではないか、と思うのです。
あのCMのように、もし牛に人間並の知能があったら、確かに食べてはいけないんじゃないの?と考えても、おかしくないと思います。
でも、もし「知能が高い生き物は食べてはダメだ。」とか「知能が低い生き物は食べてもいい。」となったら、何らかの事情で知能が低い人間は、殺しても食べてもいいって事になってしまいます。あるいは知能が低い人間は、他の生き物に食べられてもOKと言う事になってしまいます。知能が低い人間は、食べられてもいいのでしょうか?
とんでもない。知的障害者も認知症患者も殺してはダメです。殺されたり他の生き物や人間に食べられてOKなわけがありません。人間が勝手に決めた事かもしれませんが、全ての人間に人権があるのです。
そしてつまり人間に人権があるのは「知能が高いから」ではなく「人間だから」なのです。生き物の、食べられてOKかOKじゃないかの境界線は「知能が高いか低いか」ではなく「人間か人間以外か」という所にあるのです。
そんなわけで「イルカは人間並に知能が高いから食べてはいけない。」という主張は、とんだ的外れだと言う事です。イルカは「人間以外の生き物」ですから、食べてもOKなのです。
そして、食べるか食べないかは、食べる人が決める事であって、食べない人がとやかく言う問題ではありません。
中国人が犬を食っても僕は中国人に「可愛いワンちゃんを食べるなんて野蛮だ!」とか言いません。中国人が何を食べるかは中国人が決める事であって、僕には関係ないからです。
もちろん僕が何を食べるかは僕が決める事です。僕は犬もイルカも食べません。