「エンターテイメントっていうのは何かって言ったら、間口が広いことですよ。敷居が低くて、誰でも入れるんですよ、入ろうと思えば。やっぱり、タルコフスキーのやつなんて入口が狭いですよ。そう思うでしょう?」
「僕はチャップリンの映画がいちばんこう好きなのは、何か間口が広いんだけど、入っていくうちに何となくいつの間にか階段を昇っちゃうんですよね。何か厳粛な気持ちになったりね。するでしょう?」
宮崎の言葉を借りれば、『つみきのいえ』では、やわらかいタッチのアニメで描かれることで「間口が広」く、しかし一方で観客は「いつの間にか」環境問題を 啓発され、「人間と地球の関係とは何か」、「人間の一生とは何か」という高みへと「階段を昇」って行っていると言えるのだ。この点において私は本作品を大 変評価し、一級のエンターテイメント映画だと感じたのだ。
何度も言うが本作品の場合、話の底流こそに目を向けるべきである。
したがって、「脚本がありふれている」という議論があるが、本作品では脚本という表面に着目するのではなくもっともっと底流に流れる問題にこそ目を向けるべきであるため、私はこの脚本以外ありえなかったと思う。
「つみきのいえ」は先がどんどん細くなっていく。しまいには先が尖り頂点となることで収束を向かえるであろう(これが老人の死への暗示であることは言うまでもない)。
我々人間とはしょせん世界を支配しているようで、実は隅へと追いやられ最後には飲み込まれていく存在なのかもしれない。
「僕はチャップリンの映画がいちばんこう好きなのは、何か間口が広いんだけど、入っていくうちに何となくいつの間にか階段を昇っちゃうんですよね。何か厳粛な気持ちになったりね。するでしょう?」
宮崎の言葉を借りれば、『つみきのいえ』では、やわらかいタッチのアニメで描かれることで「間口が広」く、しかし一方で観客は「いつの間にか」環境問題を 啓発され、「人間と地球の関係とは何か」、「人間の一生とは何か」という高みへと「階段を昇」って行っていると言えるのだ。この点において私は本作品を大 変評価し、一級のエンターテイメント映画だと感じたのだ。
何度も言うが本作品の場合、話の底流こそに目を向けるべきである。
したがって、「脚本がありふれている」という議論があるが、本作品では脚本という表面に着目するのではなくもっともっと底流に流れる問題にこそ目を向けるべきであるため、私はこの脚本以外ありえなかったと思う。
「つみきのいえ」は先がどんどん細くなっていく。しまいには先が尖り頂点となることで収束を向かえるであろう(これが老人の死への暗示であることは言うまでもない)。
我々人間とはしょせん世界を支配しているようで、実は隅へと追いやられ最後には飲み込まれていく存在なのかもしれない。