「若年性認知症」 と診断された妻との生活 | フレイルも認知症も減らない日本

フレイルも認知症も減らない日本

Nobody is in possession of the ultimate truth.

ウイルスと戦争の世紀で人生を終えることになるとは・・・まさに第三次世界大戦前夜の状況ですからね しかも本日は日本の金融市場はトリプル安


拙著にも取り上げた
典型的な
海馬温存型
症例です

昨日のBPSDの記事を読めば
理解しやすいと思います

大事なことは
遠くの医者より
近くの介護



PHPオンラインより


帰ると家の中が
滅茶苦茶に
...52歳で「若年性認知症」
と診断された妻との生活


若年性アルツハイマーの母を介護している、フリーアナウンサーで社会福祉士の岩佐まりさん。岩佐さんの介護生活を支えているのは、仲間たちの存在だといいます。 

岩佐さんの介護仲間で、「認知症の人と家族の会」や「若年性認知症家族会・彩星の会」で世話人を務める三橋さんの妻が若年性アルツハイマー型認知症と診断されたのは、52歳のときでした。

不調のはじまりは自律神経失調症

夕食のあと、テレビを見てたんですよ。
カミさんと。そうしたら彼女がいきなり「苦しい、救急車を呼んで」って言い出したんです。 最初の診断は自律神経失調症だったんですが、翌年にはパニック障害とうつ病だと言われました。

当時、1990年代の半ばは、まだそういう言葉が世の中ではあまり知られていなかったですね。私とカミさんは44歳でした。

 カミさんには、家業の文具作りを手伝ってもらっていました。文具作りをはじめた親父と経理担当の母とで、本当に家内工業でしたよ。 大人しくていつもにこやかだけど、芯は強くてしっかりしている。カミさんはそんな女性でした。 カミさんの実家は茨城の農家でした。高校を出て食品メーカーに就職して、デパートに派遣されていたんです。そのときに、隣の和菓子屋でバイトしていたのが僕です。まあ、一目ぼれでした。 

パニックはいったん収まったんですが、その後は、意欲の減退がひどかったですね。家事や料理をすることができないんです。食欲も落ちて、急激に痩せていきました。ただ、波があるんです。落ちるときは落ちるけれど、たまに元気になって「私もがんばらないと」なんて言ったりする。

 そんな生活が何年も続きました。 通っていた心療内科では大量に薬が出ましたね。元気を出す薬、元気が出過ぎるとそれを抑える薬、胃腸薬……。そういう時代だったんです。

一番多いときは、1日に28錠の薬を飲んでいました。


8年かかって確定した病名

でも効果はあまりなく、むしろ調子は悪くなっていきました。ついには食べることが出来なくなってしまい、全然食事が摂れなくなっちゃったんですね。病院はいくつか行きましたが、どこもうつ病か更年期障害という診断でした。

カミさんもほとんど横になったままになっちゃって、いよいよまずいと思っていた頃、評判のいい精神科クリニックを見つけたんです。

初診では、2時間くらいかけてじっくりと診てくれました。その後MRIも撮ったんですが、異常はない。それで、3回目の診察で先生が言ったんです。

「認知症かもしれない」と。

当時は、ちょうど「痴呆症」という呼称が「認知症」に変わった頃でした。僕にも聞きなれない病名でしたけど、紹介された大きな病院で長谷川式認知症スケールのテストなどいくつかの検査をして、「若年性アルツハイマー型認知症」だと確定しました。

カミさんはもう52歳になっていました。
病名が確定するまで8年もかかったんです。

40代の後半は、いわゆるMCI(軽度認知障害)の状態だったんだと思います。確定した段階で、すでに中期まで進んでいると言われましたね。

長谷川式は30点満点で、20点以下だと認知症の疑いがあると判断されるんですが、カミさんは17点でしたから。


中核症状で「親の死」も認識できず

診断が下ってまずやったことは、入院でした。
食事が摂れなくなってしまっていたから、食べられるようになるまで入院することになったんです。 ところが、入院している最中に茨城のお母さんが亡くなったんですね。それで、病院に外出許可を貰って茨城まで帰ったんですが、カミさんはもう、お母さんが亡くなったことを認識できないんですよ。衝撃でした。 すごく仲がいい親子だったから、周囲は「悲しくて、亡くなったことを認めたくないんだろう」とか言っていたんですが、そうじゃない。

明らかに理解できていないんです。 

会話は、まあ普通にできますし、食事も少しだけ摂れるようにはなっていました。入院していた精神科の病院は、閉鎖病棟でちょっと重苦しい雰囲気なので、僕が行くと「こんなところは嫌だ。帰りたい、お父さんと一緒にいたい」って泣き叫ぶんです。  

お父さんというのは、僕のことですね。僕のことはわかっていたし、自分が置かれた状況も理解している。 だけど、お母さんのことは理解というか、認識していない。ぼうっとした感じで、感情が動かされないんです。だから、茨城まで向かう車の中でも、むしろ嬉しそうでした。僕と一緒にいられるから。 

症状が進んでいたんでしょうね。認知症の中核症状に、時間や場所の感覚がなくなる「見当識障害」がありますが、それに近かったと思うんです。


認知症のひとが暴れる理由


ある日、営業で外回りをしていたら、母から電話がかかってきたんですよ。「2階から凄い音がするのだけれど、何か工事でも入ってるの?」って。僕たちは両親と二世代住宅で同居していたんです。 工事なんて頼んでないのに変だな、と思って帰ってくると、2階のベランダでカミさんがニコニコして手を振ってる。

でもよく見ると、家の前の道路に、リビングの椅子がバラバラになって捨てられてるんですよ。 びっくりして2階に上がったら、唖然としましたね。家の中が滅茶苦茶に壊されてるんです。テレビは床に投げられ、ベッドは破壊され、本棚に並べられた本はバラバラになって……。

カミさんが、僕の留守中にやったんです。 原因があるんです。僕が出かけて、閉め切った部屋にひとりで置いていかれて寂しかったり恐怖とかで混乱してしまうんです。理由なしに荒れたりはしません。 

あと、カミさんが暴力を振るう相手は決まって僕。

両親に手を上げたことは一度もありません。 
認知症の人って、一番身近で、もっとも心を許せる人に乱暴になるんです。それ以外の人には、割といい恰好をしちゃう。認知能力が落ちているようでも、相手を認識して体裁を整えているんですね。 

暴れるのにはちゃんと理由があるから、その理由を取り除ければ意外と穏やかに過ごせるんです。 カミさんの場合は、僕が放っておいたり不機嫌になったりするのがよくなかった。

だから、家の2階を壊されてからは、営業のときは助手席にカミさんを乗せて外回りに行くようにしました。飼い犬も一緒に乗せてね。 家で仕事をするときも、仕事場は1階だったので、そのときだけはカミさんを1階に連れてきて隣に座らせていました。それだけでも、かなり落ち着きましたよ。

「悪魔の声」が聞こえる


すごく恐ろしかったのが、カミさんが徘徊するようになったことです。

 2010年の6月、家の1階で仕事をしていると、ふとカミさんが家にいないことに気付いたんです。2階にいたはずなのに。 必死に捜していると、2時間くらい経った頃、警察から電話がありました。カミさんが高速道路を歩いているところを保護したと。 

僕はこういう場合に備えて、カミさんの服のポケットに連絡先を入れておいたので、それを見て電話したんですね。 ぞっとしましたよ。車にはねられてもおかしくなかったし、もしそんなことになったら、はねた車の運転手の人生も狂わせてしまう。 

それで僕は地域の徘徊SOSネットワークに登録し、家のドアも、鍵なしでは内側から開けられないものに交換しました。 この頃のカミさんは、一緒に犬の散歩に出かけると、スキを見て逃げ出すんですよ。僕は走って追いかけて、連れ戻す。 

でも、いつものようにカミさんが逃げ出したあるとき、すごく恐ろしい考えが頭に浮かんだんですね。「もう追いかけるな。放っておけ」という。 ……我に返った頃には、カミさんはもうずいぶん遠くまで走っていっていました。あわてて追いかけて連れ戻すことができました。すごく疲れていたと思います。 

介護をしている知人も、入浴を助けているときに、ふと「このまま手を離したら……」と考えたと言っていました。介護をしていると、そういう悪魔の声が聞こえる瞬間があるんです。