「認知症の人と家族の会」の高見国生代表理事の講演要旨 | フレイルも認知症も減らない日本

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ウイルスと戦争の世紀で人生を終えることになるとは・・・まさに第三次世界大戦前夜の状況ですからね しかも本日は日本の金融市場はトリプル安

「認知症の人と家族の会」の
歴史がここに・・・。

「認知症の人と家族の会」
拙著208ページでも取り上げています。


支えられる余力ある社会が
維持できる日本であり得るか❓



朝日新聞より。



「温かい風を大きく」
認知症国際会議
高見さん講演要旨


 
認知症国際会議の開会式で27日、
「認知症の人と家族の会」の高見国生(くにお)代表理事(73)の講演要旨は次の通り。

     ◇

 私は1943年に福井県で生まれました。ところが48年に発生した福井大地震で、両親と弟、祖母を亡くしました。

京都に住んでいた父の姉、おば夫婦に引き取られ、育てられました。養子縁組をしたので養母ということになります。

その養母が75歳、私が28歳ぐらいのころから認知症の症状が出始めました。症状は進み、失禁、なんでも食べる、私の顔もわからない、私に向かって「どちらさん」と聞くような状況になりました。

養父母と私たち夫婦の4人暮らしの家庭は大混乱になりました。

「もうやってられない」と思ったとき、(認知症の人を介護する)家族の集まりに顔をだしました。

介護している者同士が話しあった衝撃は今でも忘れられません。自分だけが苦労している、どうして苦労しなければいけないのか、と思っていました。

しかし苦労しているのは自分だけではない、もっと大変な人がいるとわかりました。

それなら、もう少し介護をがんばろうかという気持ちになりました。その気持ちが「家族の会」をつくろうという気持ちになりました。

新聞記事をみて、家族の会の結成総会にたくさんの人が集まることになりました。それが80年1月。朝から粉雪が舞う寒い日でした。京都の家族だけ20人ほどと思ったら、九州から関東から全国から90人が集まることになりました。

80年に家族の会をつくったとき、私たちは世界の動きはまったく知りませんでした。

しかし後で、世界でも同じころにアルツハイマー病協会が各国で誕生していると知りました。

同じ時期に認知症問題に取り組む団体ができたというのは感慨深いものがあります。

92年、私たち家族の会はADI(国際アルツハイマー病協会)に加盟しました。

 
2004年には、この同じ(京都の)会場でADI国際会議を開催しました。

越智俊二さんが、この舞台で思いを話しました。越智さんは「私は認知症になって10年になる。治りたい、治って働きたい。働いて苦労をかけている妻に恩返しがしたい」と話しました。その話をきいて会場にいた人はみな泣きました。

どうして泣いたか。

それまで認知症の人は「なにもわからない」と思われていました。その人が「不安」「治りたい」「家族に恩返しをしたい」と言われたので、みな泣いたのです。

その年の12月、国が「痴呆(ちほう)」という言葉を「認知症」に変えました。

日本語で痴呆は「アホ」「バカ」という字。かつては認知症の人をそう思っていたということです。そう思っていたから、こんな痴呆という名称がつけられていました。

家族の立場からすれば痴呆は好ましくない。「私の母が痴呆になった」というと、いかにもダメな人間になったように思います。だから私たちは「痴呆性老人をかかえる家族の会」とせずに、「呆け老人をかかえる家族の会」という名称にしました。


関東の人などから、いかがなものかという意見があったのは事実だが、痴呆よりはいいということでやってきました。

痴呆という言葉が認知症に変わったことによって、みんなも口にしやすくなって、認知症問題が広がっていきました。思いを語る認知症の人が出始め、その後に続く人もでてきました。

当時は自分の顔や名前をだして「認知症です」と言うのは勇気が必要だったし、家族から反対されることもありました。

しかし先人が先をきってくれると、後に続いてくれます。日本でもその後、名前や顔をだして語ってくれる人がでてきました。こういう人たちの流れが、いま丹野(智文)さんたちに受け継がれています。

わが家族の会の状況を説明します。

全都道府県に支部があり、会員は1万1千人いる。互いに助け合って勇気をもって生きていこうという活動ですが、「つどい」などの活動には限界もある。

介護を続けるには経済的な問題もある。

家族だけではどうにもならない、持ちこたえられない場合には、専門職の支援サービスがいる。当事者同士が励ましあうとともに、社会的な支援、社会的なサービスが必要になってくる。

私たちはこうした視点から、家族会結成後から厚生労働省に要望書をだしてきました。これまで約70回の要望や政策提言を行っています。

本人が生きることを本人だけの責任にするな、介護を家族だけの責任に押しつけるな、社会的に支えることが必要だ、と言い続けてきました。

2000年度に介護保険ができた。これは介護を社会的に支えようという意識のあらわれで、歓迎しました。

その頃までは、我が国の認知症施策は「右肩あがり」で進んできました。だが2005年度の介護保険法改定あたりから、介護保険に暗雲がただよいはじめました。

制度が変更され、利用者の費用負担が増えるなどしています。介護保険が後退しかかっています。せっかくできた家族の本人のための介護保険ですから後退しないようにしてくださいと要望を続けています。

国は新オレンジプランをつくり、施策は本人や家族の視点でと言ってくれている。こちらは大変あたたかい風が吹いてきたと思っています。介護保険では少し冷たい風が吹いている。私たちとしてはできるだけ冷たい風を小さくして、あたたかい風を大きくしたいと思っています。

今回の国際会議開催にあたって、日本の認知症関係の五つの当事者団体が共同してシンポジウムを開き、共同アピールを発表しています。

日本で5団体の連携の取り組みができたのは、将来に向けて明るい出来事だと思っています。