父がこの世を去って3度目の春がもうすぐです。

父の闘病生活は2016年の冬から2017年の秋までわずか20か月だったのだなぁと振り返ると不思議な気がします。

このブログを通じて当事者の気持ちを知りそれぞれの方法で病気と向き合う方に勇気づけられ、時には身内のようにその病状を心配し、同じ立場の人たちと励ましあうことで、弱い自分もなんとか最後まで懸命に生きた父を見守ることができたと思います。父なき後も、何かこのブログを通じて発信できないか、いつも心にはあったのですが 私は手術も入院も、投薬治療も受けたことがない、ただの元患者家族なので、そんな自分が今何か発信することで誰かを傷つけるのではないか、能天気にうつるのではないか、と思うと、自分にとって大切な場であるからこそ、そっとふたをしたまま今日まで来てしまいました。フォローさせていただいている皆さんのブログは変わらない気持ちで毎日拝見しています。今日は不思議になんともarurunさんが懐かしく、ながく更新されないブログを拝見していました。父が夢に出てきた話にも温かいメッセージを送ってくれたのでした。今回もまた彼女に励まされ元患者家族として今思うことを書かせていただければと思います。

 

おとなになってからは一人暮らしをしていたとはいえ、ほぼ毎日、顔を合わせ夕飯を共にしていたのですが口数の少ない父との思い出は少なく、日々薄氷を踏むような気持ちで過ごした20か月の記憶に、平和な日々の思い出が押しやられ今もなお、思い起こすことが難しいです。そして、ふとした瞬間にあふれ出してくる、してあげられたことよりしてあげられなかったこと、当時は思い至らなかったこと、傷つけてしまったこと、我慢させてしまったこと、そんなどうにもならない後悔に打ちのめされるのは見送り人の宿命なのでしょう。

 

葬儀の2日後から日々、会社に行って、普通の顔をして生活をしていましたが孤独で苦しかった。最後の数か月はホスピスでほとんど話もできなかったけれどもそれでも生きて触れることのできるところにいることと、もう二度と触れないところに行ってしまうことはこんなに違うものかと、喪失感の大きさに打ちのめされる日々でした。病気の人や老いた方が時に「生きていても迷惑をかけるだけ…」等と口にされますが、そんなことは絶対にない、生きていてくれるだけでなんと自分の力になっていたのかと心からそう思います。

 

自分の時間が戻ってきたけれど、何をどうすればいいのか、自分はどうやって過ごしていたのか、全然わからないまま時間が過ぎ、3回忌を過ぎた頃、ようやく肩の力が抜けてきたというか、少しずつまた自分の生活に戻っていかなければ、と顔を上げることができ始めたように思います。多分父がそう思わせてくれたのでしょう。私の場合は父ですから、極端なことをいえば見送るのは順番として当たり前のこと。人や場合によっては傷が乾き始めるのにまだまだ時間や体力、気力の貯えが必要となることでしょう。いまもし辛い方がいればどうか無理をせずに。ただ一日を生きることだけで十分です。いつか亡くなった方からのそろそろ自分の人生を生きよ、というメッセージが届くのではないかと思います。

 

長くなりましたが最後に医療について、たった20か月の闘病でしたが、父は患者数の多い肺がんであった為、ステージ4とはいえガンマナイフやオプジーボなどの新しい治療を保険適用で受けることができました。今後も新しい治療が承認されることと思います。進行がんであってもそれまでの生活を続けることが出来、そして寛解を目指すことが出来れば本当に素晴らしいと思います。一方で父の闘病については病気が進み治療を重ねるにつれ画像やデータに気を取られ副作用や痛みに寄り添うことが二の次となっていた気がします。骨転移については痛みを訴えても長く放置され、1度目はひざの骨が、2度目は頸椎が溶けてなくなるまで効かない痛み止めで我を失いつつ我慢しつづけました。食べ物の味が分かりづらくなっていることも、口内炎が辛いことも長く気が付いてあげられずにいました。患者というのはなんと我慢の多いことか、、ずっと言われていることですが、早期からの緩和医療の併用が、一人の医師の判断によらない各専門医によるチームでの医療が、せめてすべての拠点病院で実現されるよう強く願っています。治療における我慢が少しでもなくなりますように。



樹木葬のお墓ができました。まだ、納骨は出来ていないのですが、、早く落ち着きたいと思ってるかなーうーん