作家であり音楽家でもある大島ケンスケさんの動画です。


日本人は素晴らしい民族だったんです。

過去形ですみません。



日本人は無知で馬鹿で調べようとしないから騙される。

そんな言葉が、SNSには溢れています。
その通りだと思います。

でも、昔の日本人は賢くて国を大切にしていた。

未来の日本人のために、彼らがなにをしてくれたか、大島さんが伝えてくださっています。

ぜひ、ご覧ください。



さらに、

作家である大島さんは、当然ながらいろんなことを知っていますが…

スターリンの北海道占領計画を命がけで阻止された樋口季一郎陸軍中将のお話も、たしか
大島さんから学んだのですよ。

でも、そのポストが見つからなーい💦


なので、樋口季一郎陸軍中将の情報のリンクを貼ります。↓
上記の記事より、まずはユダヤ人難民を救った文章を一部引用させていただきます。↓

オトポール事件

1938(昭和13)年3月8日、樋口は満州国との国境にあるソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が現れたとの報告を受けました。人道的には救助したい、しかし軍人としての立場を考えると、行動は慎重にならざるを得ない。結局、自らの失脚も覚悟して、救出を決意。カウフマン博士に食料や衣服の手配を要請し、部下に素早く指示を与えました。南満州鉄道には、救出のための特別列車を出すことを取りつけました。こうして移動ルートを確保。「ヒグチルート」と呼ばれています。
そして3月12日、ユダヤ人難民一行がハルビン駅に到着。滞在ビザが出されました。
杉原千畝の「命のビザ」発行の2年前です。



そして、こちらは北海道を救ったお話です。↓ 

占守島の戦い

1945(昭和20)年、戦局は日本にとって益々厳しい状況になり、8月15日終戦。8月16日、大本営は各方面軍に対し、止むを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為を停止する命令を下しました。さらに、自衛のための戦闘行動も、8月18日午後4時までと期限付き。
樋口は指揮官として、部下にこの命令を伝えました。しかし、ソ連が侵攻を止めるとは到底思えなかったのです。
千島列島の北東端にある占守(しゅむしゅ)島。ここにいた兵士の多くは、終戦の知らせを聞き、安堵していました。
しかし、8月18日未明、ソ連軍が占守島へ上陸。樋口の元へも連絡が届き、現地に次のように連絡しました。

自衛のための戦闘として、現場の兵士には戦うことを命じました。日本側は停戦交渉を行いましたが、ソ連は応じず。期限の午後4時を迎え、日本軍はピタリと戦闘を停止しました。日本人の律義さを感じます。結局21日に停戦が成立し、23日から武装解除が始まりました。この戦いで、日本軍はソ連の侵攻を抑え、北海道そして日本を守りました。非常に意味のある戦いゆえに、多くの人に知られてほしいと思います。
ただ、武装解除した後、多くの日本兵がシベリアに抑留されました。多くの犠牲の上に、今の日本が成り立っていることを、改めて感じました。



↑以上抜粋させていただきました。


樋口季一郎さんのお話、知らない道民は多いと思います。

少しでも知ってほしいなあ。

そして、やはり

戦争はいやです。