日本人は素晴らしい民族だったんです。
過去形ですみません。
オトポール事件
1938(昭和13)年3月8日、樋口は満州国との国境にあるソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が現れたとの報告を受けました。人道的には救助したい、しかし軍人としての立場を考えると、行動は慎重にならざるを得ない。結局、自らの失脚も覚悟して、救出を決意。カウフマン博士に食料や衣服の手配を要請し、部下に素早く指示を与えました。南満州鉄道には、救出のための特別列車を出すことを取りつけました。こうして移動ルートを確保。「ヒグチルート」と呼ばれています。
そして3月12日、ユダヤ人難民一行がハルビン駅に到着。滞在ビザが出されました。
杉原千畝の「命のビザ」発行の2年前です。
占守島の戦い
1945(昭和20)年、戦局は日本にとって益々厳しい状況になり、8月15日終戦。8月16日、大本営は各方面軍に対し、止むを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為を停止する命令を下しました。さらに、自衛のための戦闘行動も、8月18日午後4時までと期限付き。
樋口は指揮官として、部下にこの命令を伝えました。しかし、ソ連が侵攻を止めるとは到底思えなかったのです。
千島列島の北東端にある占守(しゅむしゅ)島。ここにいた兵士の多くは、終戦の知らせを聞き、安堵していました。
しかし、8月18日未明、ソ連軍が占守島へ上陸。樋口の元へも連絡が届き、現地に次のように連絡しました。
自衛のための戦闘として、現場の兵士には戦うことを命じました。日本側は停戦交渉を行いましたが、ソ連は応じず。期限の午後4時を迎え、日本軍はピタリと戦闘を停止しました。日本人の律義さを感じます。結局21日に停戦が成立し、23日から武装解除が始まりました。この戦いで、日本軍はソ連の侵攻を抑え、北海道そして日本を守りました。非常に意味のある戦いゆえに、多くの人に知られてほしいと思います。
ただ、武装解除した後、多くの日本兵がシベリアに抑留されました。多くの犠牲の上に、今の日本が成り立っていることを、改めて感じました。
戦争に参加したくないのなら、何よりまずは自分自身が平和、平穏、寛容でいましょう。そしてニュースを見るのではなく、目の前にいる人を見よう。話を聴こう。
— 大島 ケンスケ (@mirokukensuke) 2022年3月22日
そして笑顔。あなたの周りから、平和が広がる。