291 workshop 読書会 第1回(2014.03.17) スーザン・ソンタグ『写真論』より「プラトンの洞窟で」についてのメモ
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20150303p12
▽表紙の写真について
https://twitter.com/n291/status/445705444921581568
▽前書き
※第1回ではここを飛ばしてしまいました。『写真論』所収のエッセーは、そもそも写真をふんだんに使った記事で『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌に掲載されたものだった。いずれ元の記事にもあたりたいところ。それほど詳しく検索していませんが、初出のPDFは発見できず。
▽大判カメラのフィルム
▽ブローニー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC
▽Brownie (camera) ※いわゆる「The Kodak Camera」
▽ニエプス ダゲレオタイプ フォックス・タルボット カロタイプ
詳しく学びたい方はこちらを→http://www.amazon.co.jp/dp/4422211692
※クエンティン・バジャックはMoMA写真部門の現チーフキュレーター
▽橋本一径 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E4%B8%80%E5%BE%84
▽ベルティヨン式 - Google 検索
▽洞窟の比喩 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AE%E6%AF%94%E5%96%A9
そもそも「プラトンの洞窟」からの脱出は不能。なのに、その議論を冒頭に持ってきており、かつエッセーのタイトルになっているのはどうか?
プラトンの洞窟の比喩が、カメラ(カメラ・オブスキュラ)のアナロジーとして使われている。
※読み直すと「写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている」という文言が重要かもしれません。ソンタグも出られないことはわかっている?
▽映像による知育
写真(光学的な映像)による/工芸的な映像(絵画など)によるの対比。
※ただし、カメラの原型となったカメラ・オブスキュラは、絵画を描くための装置や見せ物として使われてきたという背景もあり。
※神戸芸術工科大学紀要芸術工学2007 | 映像装置カメラ・オブスキュラの研究
http://kiyou.kobe-du.ac.jp/07/report/10-01.html
▽イブン・アル=ハイサム
http://web.canon.jp/technology/kids/history/02_ibn_al_haytham.html
▽映画・テレビと写真との比較
ムービング・イメージを想起すること/スチル・イメージを想起することの違いはどこに?
▽「写真映像のいかがわしい魔力」というフレーズ
日本の写真にまつわる言説でも、やたら「いかがわしい」「写真のいかがわしさ」「鵺のような」みたいな言葉が使われます。その源流に、このソンタグの言葉があったりするのかもしれません。
▽ゴダールの映画『カラビニエ』(1963)
https://twitter.com/n291/status/446136417970683904
▽写真と所有の問題
写真機=カメラを持つことで人格が変わってしまったりすることがあること、自動車を運転すると気持ちが大きくなってしまう人がいたりすること、などからある機械なり装置なりメディアが人間の精神にどういった作用を及ぼすかについて話題になったりしました。
▽モダニティの淵源としての写真映像
▽マルクス主義とソンタグ
ニューヨーク知識人(The New York Intellectuals)
▽「疎外」はマルクス主義のターム?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E5%A4%96
▽活字→抽象/写真→対象化
対象化できるがゆえに所有できる。
http://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E5%8C%96
▽「あのファウスト的エネルギーと精神の損傷のおまけも、」
このセンテンスが意味するもの含意しているものがよくわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88
▽活字・絵・デッサン/写真映像
活字・絵・デッサン→ひとつの解釈、取捨選択した解釈
撮影された映像→世界の断片、現実の小型模型、だれにでも作れる
この違い。ただし、後者がフレームによって取捨選択しているという議論に立ち入らない場合。
▽「世界の断片」という言葉
森山大道が多用するフレーズ。「世界の断片をきりもなく収集することこそが写真の本性(ほんせい)」うんぬん……とか。
▽だれにでも作れる
写真はデモクラティック(民主的)なメディアだというふうな話がなされることもしばしばです。
ただし、ウィリアム・エグルストンの「デモクラティック」概念はやや込み入ったものがあるようです。何だかアルフレッド・スティーグリッツの「イクイヴァレント」のような感じも。
※齋木克裕さんの読み
https://twitter.com/ka2saiki/status/224317861852749824
https://twitter.com/ka2saiki/status/224318701195902980
https://twitter.com/ka2saiki/status/224318448874954752
https://twitter.com/ka2saiki/status/224317955905818625
https://twitter.com/ka2saiki/status/312061396605091840
https://twitter.com/ka2saiki/status/312062473161277440
▽「写真は世界の尺度を自在に操るが、自分のほうも縮小されたり、……」
「自分」(原文:themeselves)は、写真のことです。ちょっと面白い発想なので、作品の着想にも結びつくかもしれません。
あと、「自在に操る」の原文は「fiddle」です。どちらかというと悪い意味です。
http://ejje.weblio.jp/content/fiddle
▽本の中の写真
映画と本の違い。流れる時間と留まる時間。
▽クリス・マルケル『ひとこぶらくだが四頭あれば』(1966)
現在の日本語版タイトルは『もしラクダを4頭持っていたら』。
原題『Si j'avais quatre dromadaires』。
http://www.yidff.jp/2013/program/13p3.html
※リンク切れ用 http://www.tofu-magazine.net/newVersion/pages/4%20dromadaires.html
▽パリ・コミューン
写真を証拠にパリ警察が支持者側を検挙。記録写真による正当化。ベルティヨン式に結びついていく。
※当時は大判カメラで高速シャッターが切れないのに、どうして証拠写真が?の件
※中平卓馬の沖縄ゼネスト警察官殺害事件(松永事件)関連
http://www.ipm.jp/ipmj/kohara/kohara72b.html (この章の最後の節を)
※※第10回重森弘淹写真評論賞受賞 小原真史「中平卓馬試論 カメラになった男」
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060316p6
▽「一枚の写真はそれがどういうものであれ……したがって最も正確な関係を……崇高なる大家にしても、ますなによりも『そこにある』ものを写して見せたいのであって……ぱちぱち撮る写真狂いと変わらないのである。」
ロラン・バルトによる写真の本質(ノエマ)=「それはかつてあった」(Ça-a-été)。
シュルレアリスムと写真。犯行現場とアジェ。
ポラロイド・カメラ普及の歴史については要調査。
1970年代。つまりダイアン・アーバスの自死からMoMAでの回顧展、その大反響があって以後の状況というコンテクスト。※この『写真論』全体を貫いているものでもあるかと思います。
一方で、写真にまつわるこうした議論が、なぜいまだ説得的に響くのか?という疑問も提出されました。
▽「絵画や散文で描いたものは取捨選択した解釈以外のものではありえないが、写真は取捨選択した透かし絵として扱うことができる」
「取捨選択」という言葉がここでも。
「透かし絵」が含意しているものとは?
▽「しかし、およそ写真に権威と興味と魅力を与えるものは……」
このセンテンスの読みに注意。要原文参照。
「写真家のやる仕事は芸術と真実の間でおこなわれる(芸術家が芸術と真実の間でおこなう)」の意?
▽FSA
FSA(Farm Security Administration; 農業安定局または農業保障局)
FSAプロジェクト
http://ja.wikipedia.org/wiki/FSA%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88
FSA(農業安定局)プロジェクト | 現代美術用語辞典ver.2.0
1930年代の終わり。FSAの写真はドキュメンタリーですが、その背景には機械主義とアヴァンギャルドの思想があるかと思われます。一つ前の段落のポール・ストランド、そしてFSAのウォーカー・エヴァンズやベン・シャーン、ここには記されていませんがルイス・ハインなどは、写真のメカニカルな記録性が、よりよい社会を築いていくことに資するといった考え方を持っていたと思います。ストランドは当初から当局にマークされており、戦後は赤狩りでアメリカを追われて欧州に移住します。
▽写真もまた「ひとつの解釈」
絵画やデッサンと同じように、作者の意図(無言の声)から逃れることはできない。
「自分の主題に対していろいろな基準をはめている」
この基準をどんどんと解体していくことが、モダンからコンテンポラリーに至る過程で(日本では一部でまだそれが根強く続いていたりとか)、さまざまなかたちで試みられてきたように思います。ただし、現在それを写真でおこなうことで何らかの優れた作品にすることは、ますます困難になってきていると私は思っています。
▽写真の記録がもつ受動性と遍在性=写真の「メッセージ」であり攻撃性
受動性と遍在性が攻撃性という転倒。※偏在ではなく遍在であることに注意。
無媒介性(受動であるがゆえの直接性)と無差別性と言い換えてもよい?
この「メッセージ」という言葉は気になるところ。読書会でも話しましたが、ソンタグはパリに留学もしていましたし、もちろんバルトを読んでいたようです。
“フランスの哲学者・記号論学者R.バルトは〈写真はコードのないメッセージである〉と定義した(《写真のメッセージLe message photographique》1961)。”http://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88
このあたりの関係については今後要調査。
▽「写真術がそもそもの始まりから受け継いできた約束、つまりあらゆる経験を映像に翻訳することによって民主化するという約束の実現」
攻撃性←→受動性と遍在性の裏表。
民主化。共有可能性。このエッセー「プラトンの洞窟で」の冒頭の議論との結びつき。
▽写真が芸術になった歴史的な経緯
産業化の結果、社会的効用が生まれ、その反動が芸術としての写真の自意識へ。ただし、これはソンタグの読み(ソンタグがいかにそれまでに書かれた写真史や写真論の書物を読んでいたかは、http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-7265-2 を参照)。その読みにアビゲイル・ソロモン・ゴドーらの論がどのように響いているのかは要調査。
▽写真の大衆化
職業写真家とアマチュア。
(1970年代当時では)ありふれた娯楽になった。
家族写真。カメラの普及台数。
家族制度のゆらぎ、核家族化の始まりと家族写真。
「ふつうは拡大家族」という部分も気になるところ。
拡大家族といえば、ナン・ゴールディン。そして後のヴォルグガング・ティルマンスにも結びつく話題。
と思ったら、ナンは拡大家族という言葉を独自に定義していたようです。“”付きの言葉のようです。通常の意味は次のリンクを。
http://kotobank.jp/word/%E6%8B%A1%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F
▽ツーリズムと写真
観光とカメラ。
写真が経験を証明するとともに、経験を狭めたりする話が語られています。今もよく語られる話題。
読書会では、なぜ旅行と写真(カメラ)が強く結びつくのかについて、いろいろな見解が出ました。
※ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイス (Peter Fischli & David Weiss)「Visible World」http://j.mp/1kEat15 本はいずれ通常のWSでも紹介したいと思います。観光写真の戦略的利用と作家主義写真へのからかい、選ぶこと見ることなどなど。
※N.E. Thing Co. Ltd「Art in America, May/June」(1969)http://vancouverartinthesixties.com/archive/471 フィッシュリ&ヴァイスの先駆となる作品だと思われます。
※ディスカバー・ジャパン(1970-)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3 中平卓馬の著作などによれば、プロヴォークのアレ・ブレ・ボケを広告表現に取り入れたとされるが、しかしこの言説は要再検証の部分もあると思います。
※1970 国鉄 DISCOVER JAPAN - YouTube
※[PDF]ディスカバー・ジャパンをめぐって : 交錯する意思から生まれる多面性
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/25556/1/NG_32_131.pdf
※中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』
http://d.hatena.ne.jp/imagon/20091007
※メモ
https://twitter.com/n291/status/454815107118145536
https://twitter.com/n291/status/454816001859665921
https://twitter.com/n291/status/454816715528867840
https://twitter.com/n291/status/454817986826600448
https://twitter.com/n291/status/454821337249218560
https://twitter.com/n291/status/454822961954832384
▽「ドイツ人と日本人とアメリカ人にはとりわけ具合がよい」という指摘。
「過去を奪われた民族は国の内外でもっとも熱心な写真愛好家になるらしい」という一文も味わい深いです。
▽「団体志向の日本人観光客の謎に取って代わられた」
1970年代にすでに指摘されているとは。
▽ツーリズムの写真と広告写真
そして写真の中には決して姿を見せない撮影者、あるいは撮影者が映り込んでいたとしても、想像的にしか考えることのできない不可視の点、ライトコーン(光円錐)の収束する先。
▽「カメラによって平等にされている」
写真の受動性と遍在性(無媒介性と無差別性)による。
「あらゆる出来事の意味を平均化する」この攻撃性。
そして、写真を撮り写真を見る者が、世界を覗き見るという習性を獲得してしまうということ。
▽「私たちの状況感覚そのものが、今日ではカメラの介入によって明瞭になっている」
この段落、ケビン・カーター(Kevin Carter)の「ハゲワシと少女」の一件とも関連付けて読むことができます。
https://twitter.com/n291/status/435332562534146048
▽「ヴェトナムの僧侶が」
ティック・クアン・ドック Thích Quảng Đức
マルコム・ブラウン Malcolm Browne
http://en.wikipedia.org/wiki/Malcolm_Browne
▽「ベンガルのゲリラが」
http://darrananderson.files.wordpress.com/2012/06/page-11-bengali-guerrila.jpg
ホルスト・ファース Horst Faas
http://blogs.pjstar.com/eye/2012/05/10/legendary-combat-photographer-horst-faas-1933-2012/
http://www.washingtonpost.com/file---in-this-dec/2012/05/10/gIQA3t02GU_photo.html
Sontag – The Photographs |
http://darrananderson.com/sontag-the-photographs/
※『写真論』の他のパートにも言及している良いリンクですが、ただし残酷描写注意。
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>>>[読書会]ソンタグ+バルト+ベンヤミンを読む〔作家の視点から〕