忠平企劃有限公司@松崎と申します。よろしくお願いいたします。

「人形町物語 HIROSHIの夢」たくさんの方々に閲覧頂き誠にありがとうございます。前回までは京樽のレストラン戦略について書きました。初代田中四郎氏より「京樽」を引き継いだ故・田中博氏について 組合活動時にうかがったお話と、田中博氏が「京樽」をどの方向に行きたかったのか?を私の推測になりますが、書かさせて頂きます。はたしてどんな「夢」将来を描いていらっしゃったか?

 

※  前回のBlog こちらもよろしくお願いします。

人形町物語 HIROSHIの夢 #043 鮓・鮨・寿司・SUSHI‐① | TAIPEI STYLE CYUBEI 台北スタイル-忠平企劃 (ameblo.jp)

 

 

田中博氏とは?

 

故・田中博氏はどんな方だったのか?1930年(昭和5年)4月 滋賀県生れ 1955年(昭和30年)滋賀大学経済学部卒。1960年(昭和35年10月)京樽初代創業者、田中四郎氏に養子縁組(旧姓は宇野)、京樽入社。1964年8月代表取締役常務。1967年3月、養父・田中四郎氏死去により、代表取締役社長。1998年(平成4年)京樽退任。

※私が在職中、京樽社員の大卒は、滋賀大学が一番多かった。ちなみに二番目は「日本体育大学」(笑)

 

滋賀時代・社会人時代

 

田中博(当時は、宇野博)氏は、旧制中学に進学するが、四年時に中退。縫製工場に行員として就職するが、肺結核にかかり1年間の療養生活。育英資金を得て滋賀大学に入学。大学卒業時は25歳、卒業後、地元の酒造会社に就職。近江商人の基礎を学ぶ。その後、東京本社へ転属。スクーターで東京下町を外交セールスをする。特に百貨店の営業では、何時間も待たされたり、少しの間違えでも、こっぴどく指導される。当時の事は「恨む」というより「躾して頂いた」と言っている。「忍耐の大切さ」「くじけないこと」商道の基本をもらったとおっしゃっていた。のち京樽は百貨店に出店するが、その時百貨店対応が生かされ、東京の百貨店に出店出来たと思う。


※私が本部・立地開発部に異動した時、先輩から教えて頂いた事がある。百貨店に商談に行く時は、その百貨店で作ったスーツを着て行くこと。そして気を見計らい「スーツの裏地を見せる」貴社のオーダースーツを購入してますょをアピール。万一他の百貨店のタグをみせたら、その時点で担当者から「嫌がらせ」が始まるから・・・これ、当時の本当のお話です(泣)

 

養子縁組

 

酒造会社の営業中、学んだことがある。他社の営業仲間が、養子縁組して結婚して行く先輩が多かった。東京の大きな会社は戦争の影響を受け、男子が少なく跡継ぎがいない。経営者達は優秀な社員を後継者として養子縁組して、事業を継続させようとする方が多く、養子縁組後「優雅」な生活を送っていた。田中博氏も「養子縁組も良いかも?」と思い始める。ただ、当時お見合いした「寿子さん」双方見染め合い、結婚を約束。寿子さんは、田中四郎氏の養女であった。仲人さんは、榮太郎社長の細田修三さん。のち「京樽」テイクアウト一号店の「上野上菱店」出店時、ご尽力を頂く。田中博氏(30歳)とんとん拍子に結婚、養子縁組となる。養子縁組当時、酒造会社に勤めながら、実家に酒造会社の給与を全額仕送り出来るという目論見もあったようだ。

 

驚天動地

 

10月10日、養子縁組・入籍。その時田中四郎氏の夢「日本一の寿司屋を作りたい」と伺う。当時の田中博氏はビックリである。養子になって、実家仕送りして、生活費もかからない、ゆうゆう自適な生活を送ろうと思っていた矢先で、壮大な夢などなかっただろう。世の中、そんな簡単には行かなかった・・・

 

入籍後、1ヶ月の11月10日、田中四郎氏が脳梗塞で倒れる。その時、田中博氏が枕元に呼ばれる。そして「実印と銀行通帳」を渡される。田中博氏は「通帳」を見て絶句する。経済学部出身・酒造会社営業で鍛えられた計算力・・・明日の茶きん鮨の「卵」を買う現金がなかった。卵がなければ「錦糸」を作れない。そして、茶きん鮨を売れない。実家への仕送りを一時ストップし、毎朝卵屋さんに頭を下げ、つけで卵購入した。すんなり京樽に入社した訳ではなく、酒造会社で昼勤めをし、給与をもらいながら、朝・夜は京樽の仕事をしていた。それは義父・田中四郎氏の夢をかなえるより、売上を上げて京樽の従業員ならびに従業員のご家族の生活を守る為に、日夜働き続けた。

※  卵が買えないお話は、年2回の組合時、田中博氏より直接伺いました。

 

※次回も私個人の空想する「田中博の夢」についてお話します。

ご依頼事項ございましたら、info@cyubei.com.tw までご相談ください。

 

以上