忠平企劃有限公司@松崎と申します。よろしくお願いいたします。

「人形町物語 HIROSHIの夢」たくさんの方々に閲覧頂き誠にありがとうございます。「株式会社京樽」1997年(平成9年)1月19日 会社更生法・倒産・・・25年前の事がよみがえってきました。会社更生法時の裏話をさせて頂きます。

 

前回のBlogであります!

人形町物語 HIROSHIの夢 #039 暁ヒストリー‐② | TAIPEI STYLE CYUBEI 台北スタイル-忠平企劃 (ameblo.jp)

 

 

【本部引越と異動内示】

 

1997年12月、本部本社は倒産時の日本橋蛎殻町ビル(自社ビル)より日本橋一丁目1番地1号「柳谷ビル」に引越する。更生計画の中、本社自社ビルの売却の話が進む。正式名称「柳谷ビルディング」日本橋一丁目1番地1号は日本戦後復興のランドタワー的存在。昭和39年竣工、私の大好きな「ニッポン無責任男」シリーズの舞台であり、植木等さん主演の「平 均(たいら ひとし)」の大ファン。そのビルの3・4Fが京樽 本社本部となる。倒産時ほぼ泊まっていた立地開発部のソファー生活から脱出出来ると思うと「やっとサラリーマンらしい生活」が出来るとワクワクしていた。
同時期、立地開発部I澤部長から、異動内示を頂いており、1月より 営業企画本部・新業態事業部(新設)へ、新しいBOSS(本部長)は、元テイクアウト事業部長のS木章氏、新業態事業部は「鬼の目黒さん」もメンバーである。私的に、12月の一番の問題は、I澤部長とS木章本部長・・・我がままジュリエット2人から仕事が雨あられのように降ってくることであった。夜は、I澤部長とほぼ毎日・神田ガード下の終電生活・・・チョット一杯、京樽のたいら ひとし生活のスタートであった。気分は、植木等状態・・・バリバリスーツにピカピカ革靴(ただし坊主)で、日本橋一丁目をスキップしながら出社していた(笑)※多分その頃の私は、その筋と間違えられていたに違いない・・・日本橋に坊主頭はいなかった・・・(笑)

 

【海鮮三崎港商標登録とロゴデザイン】

 

S木章本部長からのミッションその1は「海鮮三崎港」のロゴデザインと商標登録である。ご存知のように商標登録は「先出し主義」申請から登録許可までに、約6か月必要。当然デザインもなく、更生会社で商標登録の申請・保管する部署も担当者もいない。以前は、店舗建設部や立地開発部が担当していたようだ・・・実は会社更生法申請時に、京樽・屋号ロゴデザインを蛎殻町ビル地下倉庫の整理中に多数発見、現物を立地開発部の担当で、保管していた。一番びっくりした屋号は「王府井」のロゴ、作者は「焼酎よかいち」当時日本で非常に有名な書家「榊󠄀 莫山」先生。お金のある頃の京樽は、屋号のロゴデザインにもお金をかけていた。「関山」「味燈京樽」「味燈守卓」等も莫山先生の素晴らしい書。田中博氏は超有名書家にお願いして、書いて頂ける関係だったのだろう。

話は「海鮮三崎港」へ戻すが、S木章本部長に相談すると「更生会社なんだから、予算なんてあるはずもない」と言われる始末・・・その後営業企画本部のデザイン関係の部長にとなる「稲T氏に相談しろ」と言われる・・・何とかなりませんか?と相談すると、時間もないし、僕が墨で書いちゃいましょうと言っていただけた・・・それも「一発」で書いて頂いた思い出がある。25年前のお話である。デザイン完成、私が翌日申請・・・店舗新規開店後許可・・・綱渡り的ロゴだが、当時の「京樽再生の旗印」であった。残念な事に、今の体制になってから、I井社長やスシロー・グループの意向か?「回転寿司みさき」に変更された。なぜ、変更されたか?現社長に、「京樽再生の旗印」心がない理由について後々BlogでUPしたいと思う。

 

 

【TEAM-KAISEN 船出】

 

12月に入り、デカネタ回転寿司「海鮮三崎港」目黒ディレクターを中心に、北海道の「地獄の研修」から戻った、M田さん、BIG島さん、O矢さんと雑用係の私で、1997年12月中旬新規開店に向け、現場での準備がスタートする。M田さんは非常に大きく「京樽のデーブ大久保」大きくて力持ち、部下には優しい的存在。BIG島さんは京樽のデーブの1年後輩で、1年後輩は一生後輩、スマートなスタイルで従順なかた・・・ただし、パワー満載のTEAM-KAISENは開店後素晴らしいパワーで、更生会社・京樽を権威して行く。

 

 

「海鮮三崎港プロジェクト」次回も続く・・・

 

以上