忠平企劃有限公司@松崎と申します。よろしくお願いいたします。

「人形町物語 HIROSHIの夢」たくさんの方々に閲覧頂き誠にありがとうございます。「株式会社京樽」1997年(平成9年)1月19日 会社更生法・倒産・・・25年前の事がよみがえってきました。会社更生法時の裏話をさせて頂きます。

 

 

【私の京樽の歴史‐②】

 

1985年(昭和59年)株式会社 京樽 入社

レストラン事業部所属(FR北小金、FR常盤平、FR柏若柴、FR手賀沼等)

1992年(平成4年)田中博氏 相談役へ 片山章氏 代表取締役に就任

1996年(平成8年)本部・立地開発部に異動

1997年(平成9年)会社更生法の適応を申請し倒産

1997年4月 上場廃止(加ト吉・現テーブルマーク支援)

1998年4月 営業企画本部・新業態事業部に異動

1998年11月 回転寿司「海鮮三崎港」目黒店開店

1998年より (株)吉野家も支援協力

1998年10月 FR京樽をレストラン海鮮三崎港に業態変更

2002年4月 更生手続終了 京樽退社

 

19971月仕事始め】

 

1996年大晦日 お節料理詰込み(徹夜)後、立地開発部へ行く。軽く打合せをしてI澤部長と昼ご飯・・・大晦日なので、日本橋蛎殻町付近のお店はほぼ休み。箱崎ターミナルの「鮨京樽」でお寿司と饂飩を食べて解散。元日は自宅で大奮発して購入した「懐石京樽御節」(当時¥80,000)の御節を楽しむ。この懐石京樽御節は、人形町・総本店ですべて手作り。煮物の竹の子が亀の形に飾り包丁を入れてあり、京樽の懐石料理の技術に感動。サッカーの決勝を視ながら徹夜空けなので熟睡・・・💤

1997年1月2日、I澤部長とふたり仕事始め。他の部員や本社勤務社員は1月4日から・・・I澤部長と私は、のち申請日となる前日の1月19日まで休みなしで、7‐イレブン状態で勤務が続く(泣)

 

1997119日】

 

1997年1月19日(金) 17:00 I澤部長緊急部内ミーティング。1月21日(日)19;30 部員全員出社せよとの命令。次長クラス・金曜日はほぼ直帰なので、金曜日夕方のミーティングは「ブーブー」文句、また日曜日夜出社も「ブーブーの二乗」しかしすごかったのがI澤部長は毅然とした態度で「うるせぇ!来い」と全員出勤させた(あんなに怒った顔は初めて)。この時点で、「会社更生法」&「倒産」の話は一言も発せず、部内で知っていたのは、T岡さんと私だけでした。

その後、私はI澤部長とミーティング。1週間分の着替え持参、車で出社と指示(駐車場は当時会社が借りていた駐車場使用OK)。「明日はゆっくり休め」と言われた時は、涙が止まらなかった。

※実は、1週間ではなく、2月末まで自宅には帰れなかった(泣)部のソファーで寝泊まりしておりました。

 

1997121日】

 

1997年1月21日(日)10:00出社。I澤部長と会社更生法申請の書類・郵便物の確認をして頂きながら、約300通 1月22日0:00 日本橋郵便局に持参する郵便を17:00に作成終了。18:00頃になると営業部長(S木部長やT末部長)が立地開発部にいらっしゃる。この2人はよく立地開発部に来るのだが、「松崎 何か知ってるのだろう?吐け」と脅される(笑)石より硬い口を割らないのは言うまでもない。

人事部長になるS野次長は、1月21日午後から出社し、会社の外でブラブラ 社外の方と親しく話していた。後でわかった事だが、NHKのディレクターと日本経済新聞の記者・・・2年後このS野次長「京樽倒産」の本を日本経済新聞社から出版している。どう考えてもS野次長が知っていると思われる内容(私が知っている内容の8割程度だが・笑)であった。S野次長(元・電通)、非常に胡散臭く、倒産の本でも多額のマージンをもらったという噂でプンプンしていた。※とにかく常に人を小馬鹿にした方でした。

部長・マネジャークラスへの説明は、20:00 清澄工場。19:30頃から部長諸君が出発。日本橋蛎殻町本社は私ひとりとなる。最後にI澤部長から「誰も会社に入れるな、社名・お名前を伺い明日連絡すると伝えろ」と言われた。

 

※次回は1997年1月19日 会社更生法・発表後の、出来事をお知らせさせて頂きます。

 

以上