最大で1300人が避難した石巻市の湊小。重い意識障害のある湊中3年伊勢知那子さん(14)の家族5人も約2カ月間、ここで生活した。
自宅は石巻港から約1キロの距離にある。3月11日、地震の揺れが落ち着くと、家族は車で300メートルほど山手にある湊小に向かった。父親の直弘さん(51)が車いすを校舎に運び入れた時だった。黒く濁った泥水が校舎1階の階段に押し寄せた。
知那子さんは、妊産婦や乳幼児がいる家族たち約30人とともに3階の相談室に身を寄せた。たんの吸引など医療的ケアが必要な重い意識障害者は知那子さんだけだった。「1人分のスペースは1畳もなかった。カーテンや大漁旗を掛けて寒さをしのぎました」。母親の理加さん(44)が避難当初を振り返る。
<同級生が見守る>
3月13日、自衛隊のヘリコプターで知那子さんを石巻赤十字病院(石巻市)に搬送してもらったが、翌日には避難所に戻された。病院は次々と運ばれる患者であふれ、治療を終えた患者が入院できる状況でなかった。
自宅は2階まで浸水した。「電気も水もない。道路も電話もだめ。これでは生きられない」。絶望感で心を締め付けられた家族を支えたのは、地域の人たちだった。
知那子さんは生後11カ月の時、離乳食をのどにつまらせ、低酸素脳症に陥った。直弘さん、理加さんは「同年代の子どもと接するのが最良の教育環境になる」と考え、特別支援学校ではなく地元の湊小、湊中に進学させた。知那子さんの表情は豊かになった。学校行事を通じて、多くの住民とも知り合った。
その経験が、避難所生活で生きた。知那子さんに付きっきりの家族に代わり、地域の人が食事の支給に並び、洗濯を手伝ってくれた。真夜中のたんの吸引も「気にしないで」と見守ってくれた。
「知那ちゃんは大丈夫?」と、いつも体調を気に掛ける同級生たちがいた。理加さんは「避難した子どもたちも不安でいっぱいだったと思うが、それでも一番危うい命だと知那子を気遣ってくれた」と感謝する。
<行き場失う家族>
障害児や障害者を抱える家族はどのような避難生活を送ったのか。私たちは、支援に奔走した宮城県拓桃医療療育センター(仙台市太白区)の小児科医、田中総一郎さん(47)を訪ねた。
「知那子さんのように避難所で生活できたのは極めてまれ。避難所の入所を断られる例もあったと聞いている」と、田中さんは話す。
多くの障害児、障害者は居住する地域とのつながりが薄く、孤立しがちだ。やむなく車中や子どもたちの状況をよく知る特別支援学校などで生活した人もいるという。「在宅介護する家族と地域の人たちが互いに存在を確認し合うことの重要性が、今回の震災で明らかになった」
震災から半年となった9月11日、湊小でピアノコンサートが開かれた。避難所を出て、今は市内の借り上げ仮設住宅で暮らす伊勢さん家族も、地域の人たちに誘われて久しぶりに訪れた。
お気に入りのアニメの合唱曲にほほ笑む知那子さん。「ここは、弱い命をつないでもらった人たちと過ごした大切な場所なんです」。理加さんの瞳から涙がこぼれた。
