「年寄りの助言や指摘には耳を傾けて聞きなさい。」
幼い時から家族や親類によく言われたものだ。
右も左もわからない駆出しの社会人時代、当時の尊敬する上司から教わり、また幾度の異動と転勤を経て、いま自分の置かれている環境を見渡して、今後より一層求められる能力とは。。。ふと考えてみることにした。
それはセンスだと思う。では、このセンスとは何ぞや。
それは経験を重ねることで身につく経験則だと思う。
ではその経験とは?
Wikipediaによると、
知識の前駆として習得する物であり、体験を通して培われる。また経験を通じて得た知を、人は言葉ですぐに表すことができず、経験によって知っている知識のことを、「経験知」または「暗黙知」という。なお、更に経験を積み重ねることによって、一定の範疇で物事の判断がつくことを「経験則」といい、経験則が形成されるためには、成功・失敗を問わず膨大な経験を積む必要があるだろう。
とのこと。
一言で経験といえば、なんとなくわかるが、掘り下げて考えてみると、
・ある「時」、
・ある「場所」で、
・「誰」と
・見たり、聞いたり、臭ったり、触れたり、
など五感を通して得た情報を、各個人が
・「どのように感じ」
・それを「どのように受け止め」
・過去の体験と照らし合わせ、
・「イメージ」したことを、「アウトプット」し、
・成功や失敗を繰り返し、
・様々な「気付き」や「発見」を繰り返して「アンテナ(視点)」を増やし、
・様々な情報の中から、その都度最適なアウトプットを繰り返し、
・その繰り返しによって学習する知識
が経験だと思う。言い換えれば、経験とは、知恵とも言える。
自らが経験していない「事」を経験している先人の言葉には、経験や知恵が詰まっている。
戦前には、尋常小学校で「修身」(今でいう道徳)の授業が多かったと聞く。この修身、素晴らしいのは、「何が良くて何が悪いか」を教えていたという。それに基いた自尊心、大和魂とでも表現すればよいのだろうか、つまり、修身を受けて育った昔の人たちは、価値観や思想、観念が、現代社会よりも共有できていたということ。
昨今は、現代社会はあらゆる面で複雑になったため、価値観や思想、観念も多様化し、それを許容していると思われる。ルールにさえ従っていれば何をしてもよいという風潮、アメリカ資本主義が招いた拝金主義の横行。日本人としてのアイデンティティ、つまり思想や観念が軽薄なものになっているように感じてとても寂しい。
家庭で教える教育とは、修身であったり道徳であるべきだと思うのだが、どこの家庭も「偏差値教育」から抜けきれていない。「偏差値」は、社会において個人を測る一つの尺度でしかなく、もっと重要なことは、その個人がどういう価値観や思想、どのような道徳心の持ち主なのかだと思うのだが。
インターネットの登場により、様々な情報が入手できるのはとてもよいことだが、最近の20代は自ら経験したことがないにも関わらず、平気な顔で「知っている」という。オレは昔人間なのかもしれないが、自ら経験していないことに対して発言する際には、恥ずかしさを感じる。
インターネットや携帯電話などのIT技術による膨大な「知識」の入手と情報伝達スピードの向上、マーケティングデータマイニング、暗黙知やナレッジマネージメントなどの学問的手段。これらの条件は、望めば誰でも入手できるものだ。
この誰でも入手できる情報は、IT技術によってより一層コモディティ化していくだろう。このコモディティ化した情報を、個人の経験(知恵)とセンスによって、何を「イメージ」し、「どのようにアクション」し、そして「何をアウトプット」して、「誰に受け入れられるのか」、を「イメージ」することがとても重要な気がする。
少しメタ認知っぽい終わり方になってしまった。。コミュニケーションや日本語とは何と難しいことか、、痛感する。