南 北 戦 争 の 兵 士 た ち
この服装、何かに似ていませんか?
2828wakaさんのブログ-noname~08.jpg

旧暦の安政4年5月26日(新暦:1857年6月17日)、下田奉行井上信濃守清直、中村出羽守時万とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの間で、日米和親条約を「補修」する9か条の「下田協約」が締結されました。
旧暦の3月3日に、締結したばかりの日米和親条約なのに、もう「補修」です。
はやすぎる「補修」だと思いませんか?

実は、この下田条約こそが、黒船以上の幕末動乱の引き金であり、また海を越えた米国の南北戦争にも影響をあたえた、とんでも条約だったのです。


明治維新は、一般には嘉永6(1853)年の黒船来航から始まって、慶応三(1867)年の王政復古の大号令、慶応四(1868)年にはじまる戊辰戦争を経て、明治政府の誕生までの動きを指します。
南北戦争も、実は同じ時期の出来事です。
それは万延元(1861)年から元治元(1865)年にかけて起こりました。

南北戦争というのは、実はたいへんな戦いです。
兵力としては、北軍220万、南軍100万の大激突ですし、死傷者は両軍合わせて120万人を超えます。
大東亜戦争での米軍の死者は35万人ですから、南北戦争が米国にとってどれだけ大きな戦禍だったかわかろうというものです。

ちなみに日本では、南北戦争という呼び方をしますが、正式な英語名は「American Civil War」です。
直訳すれば米国市民戦争です。
そしてこの米国市民戦争(南北戦争)は、日本の明治維新における戊辰戦争のような「内戦」ではありません。国際紛争です。

戊辰戦争は、陛下率いる官軍が、陛下に従わない幕軍を討伐したという、あくまで国内の「内戦」です。
これに対し、南北戦争では、南部11州は、この時点で米国から離脱し、独立した「アメリカ連合国」を形成しています。
つまり南北戦争は、国際戦争だということです。

ただし、宣戦布告はありません。
実は1861年2月から4月にかけて、南部11州が米国から離脱し、その4月に、南軍がサウスカロライナ州にある「サムター要塞」を砲撃しました。
この時点では、まだ南部11州の大統領も、国名も決まっていません。
ただ各州が離脱した、というだけの状態で、いきなり戦端が開かれています。

ですからこの時点では、北軍も南軍も、戦争の準備さえできていません。

この時点で北軍の陸軍は、総数でわずか1万6000です。
武器も旧式の装備しかありませんでした。
海軍も、軍船がわずか42隻、兵員数はたったの7600人でした。
南軍にいたっては、まだ正規軍すらできていません。

もっというと、開戦目的も実に曖昧です。
南軍には、南部諸州の産業を維持し、綿花の自由貿易を推進し、侵攻してくる北軍に対して、自分たちの郷土を守る、というある程度明確な戦争目的があります。
ところが北軍は、なるほどリンカーンは奴隷の解放をうたっているけれど、それ自体は、国内制度をいかに構築するかの問題であって、南部諸州で働く黒人たちのために若い白人が、命をささげるというだけの人種平等主義は、当時の米国にはありません。

そのような曖昧な戦いのために、気がついたら両軍合わせて120万人もの死傷者を出したというのですから、すさまじい話です。

もっとも、世界の戦史を眺めてみると、堂々と宣戦布告を行ってから戦争をはじめるというのは、実は日本くらいなものです。
日本では、武道の心得で「礼にはじまる」のが常識で、若いオニイサンたちがケンカをする場合でも、最初に出る言葉は「オイ、表に出ろ!」で、これもいわば宣戦布告の一種かもしれない。

けれど世界では、まず宣戦布告などありません。
気がついたら戦争になっている。
というより、いきなりズドンとやったほうが有利です。
いかに卑劣で卑怯なものであれ、まさに勝てば官軍で、いかなる不正も正当化される。
そういう力の論理が、実は世界の歴史でもあります。

日本は大東亜戦争で、真珠湾の奇襲がどうのとさんざん言われているけれど、宣戦布告文とを、後先の問題は別として、すくなくとも時間通りにちゃんと届けようとしたというのは、それが日本だからで、さらにいえば日本人は、真珠湾の爆撃開始より、宣戦布告分の手渡しの時間が少し遅れたと責められると、気分として、申し訳ないと思ってしまう。
けれどそれは、気分です。
私たちが日本人で、礼儀や、ものごとのケジメをきちんとしなければ気が済まない民族だから、そう思うだけのことで、世界の歴史では、むしろ宣戦布告などないのが「あたりまえ」であることは、日本人の常識として覚えておく必要があるのではないかと思います。

さて、こうしていきなり始まった南北戦争ですが、そもそもどうして南部11州は、アメリカ合衆国から脱退し、アメリカ連合国を組成したのでしょうか。

アメリカ連合国(正式名称Confederate States of America)11州というのは、ミシシッピ州、サウスカロライナ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州、バージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州です。
そしてこれら11州の主たる産業は綿花の栽培でした。
まだ石油の時代ではありません。
つまり化繊なんてなかったわけで、ですから人々の衣類は、もっぱら綿が中心だった時代です。

産業革命以後のイギリスは、繊維製品加工業が大発展しました。
彼らはアメリカ南部諸州から、綿花を輸入し、これを機械で糸にし、布や衣類に加工し、できあがった製品を英国製生地として世界中に輸出していました。

当時の英国は、まさに七つの海にまたがる大帝国です。
繊維製品には大英帝国製というハクがあるわけです
英国製の生地や仕立物は、まさに世界中でひっぱりだこになりました。
おかげでいまでも、英国製生地といえば高級生地だし、英国人のいわば民族衣装だった背広上下服は、いまや世界のビジネスマンの制服になっています。

図式化すると、
アメリカ南部の広大な土地で、綿花を栽培する。
集荷した綿花を英国に運ぶ。
英国でこれを生地にする。
その生地が世界中で売れる、
という流れができていたのです。

ですからこの時期、アメリカの南部諸州は、綿花を作れば売れました。馬鹿みたいに売れました。
作ったら作った分だけ売れました。

そうなれば、当然、農場は広大になり、格安労働力として黒人奴隷が使われ、農場は見渡す限りに広がり、綿花の輸出で大儲けした各農家は、豪華な宮殿のような屋敷を作り、住むようになります。
映画「風とともに去りぬ」に出て来る主人公、スカーレット・オハラが住む屋敷は、まさに王宮のような御殿ですが、これが普通の農家のお宅だったわけです。

一方、北部諸州はどうかというと、気象条件の違いで、綿花の栽培はできません。
そこで北部諸州は、むしろ綿花を加工する工業化を促進しました。

つまり英国が大儲けしている繊維産業を、自国で展開しようとしたわけです。
ところがこれがうまくいかない。
「英国」というブランド力がないからです。

もうひとつの産業が、ロウソクの蝋(ろう)作りでした。

当時はこのロウを、鯨(くじら)の油から作りました。
そのために大西洋からクジラがいなくなり、西洋人たちは今度は太平洋に、クジラを求めだしていたのです。
このクジラの話は、あとに続きます。

せっかく南部で豊富な綿花が栽培されているのです。
北部諸州は、国内産業育成のために、綿花の輸出を制限し、保護貿易化を推進して、強制的に国内での綿花産業を活性化しようとします。

ところが、これをやられると南部諸州の農場主たちは困ります。
南部の農場主は、生活のすべてが、綿花を作ることと、これを英国に輸出することで支えられているのです。
にもかかわらず、北部にある合衆国政府は、アメリカ国内での繊維産業を活性化したいから、英国との自由貿易を許さない、というのです。

とうぜん南部の農場主たちは怒りました。
農場主たちに支えられた、南部諸州の政治家も怒る。
死活問題だからです。

そういう軋轢があるところに大統領に就任したのが、リンカーンです。
リンカーンの就任は、万延元(1860)年のことです。
そのリンカーンの主張は、奴隷制度の撤廃です。

ちなみに、よく誤解をする人がいるのですが、リンカーンは、奴隷という人身売買制度の撤廃を主張したのであって、人種の平等を提唱したのではありません。
このことは当時の背景を考えるとよくわかります。

リンカーン
2828wakaさんのブログ-noname~09.jpg

当時の北部諸州には、産業らしい産業がありません。
デトロイトに自動車産業が出現するのは、これよりもずっと後のことです。
では、北部諸州は何で食っているかというと、欧州から次々とやってくる移民たちが持って来るお金を国内でぐるぐるまわしていました。
つまり、豊富な外貨が持参金としてもたらされ、その富が消費されることで経済がまわっていたわけです。
産業らしい産業といえば、捕鯨くらいしかない。
そしてその捕鯨のための補給基地にと、日本に開国を要求した(黒船来航)は、嘉永6(1853)年、つまり、リンカーンが大統領に就任するわずか7年前の出来事です。

そういう、外国から持ち込まれるカネで、ようやく消費産業が賄われているというあやうさがあるところへもってきて、新しい移民たちにせよ、先代から米国に住んでいる移民たちにせよ、働かなくては飯が食えません。
要するに、全体に貧しい中にあって、移民による外貨がもたらされているだけで、製造業がまだ未発達な状況にあって、移民してきた白人たちの労働市場も、いまだ十分に確立されていない、そういう状況に、北部諸州はあったわけです。

ところが南部では、黒人奴隷たちを使うことで、大金持ちが続出している。
それだけならよいのだけれど、黒人奴隷が様々な事情で南部からあふれ、北部諸州に流れてきます。
実は、これが大問題だったのです。

奴隷も、人間の労働者も、働く労働は同じです。
何が違うのかと言うと、奴隷は、雇用ではく、所有財産だという点です。
法的に奴隷は、人ではありません。
モノ(動産)です。
よく、愛犬や愛猫を殺されても、法的にはそれは動産にすぎない、という話を聞いて、釈然としない気持ちを味わう方は多いかと思いますが、それが動産です。

動産は、所有者のものです。
捨てようが壊そうが、つまり殺そうが怪我をさせようが、それは所有者の意思ひとつです。
そして所有した奴隷に対しては、所有者は、まさに生殺与奪の権が認められています。

つまり、働かせる側からすると、これほど便利な存在はない。
南部の農場主たちにとっては、これはとってもありがたいことです。

ところが、ただでさえ労働者市場がまだ未確立で少ない北部諸州に、労働力としての奴隷が入り込むと、白人労働者の市場がなくなります。
要するに、北部諸州では、経営者にとっては黒人奴隷はありがたいが、労働者たちにとっては黒人奴隷が入り込むことは、自分たちの職場を奪われますから、これは深刻な問題だったのです。

リンカーンは、こうした有権者たちの意向を汲み取り、奴隷という制度そのものの撤廃をうたって、大統領に就任しました。
要するにそれは、北部の白人労働者の職場を守れ!という主張であったわけです。

ですから、奴隷解放といっても、あくまで守るべき主体は、白人労働者の雇用の安定です。
黒人たちの人権ではありません。
ですから、リンカーンは、奴隷解放、つまり奴隷制度の撤廃はしていますが、解放したはずの黒人たちに人権は与えていません。
つまり人種差別は継続しています。
米国が、黒人を同じ人間、つまり黒人たちに米国市民として白人同等の権利を与えたのは、昭和37(1962)年、リンカーンの死後97年も経ってからのことです。

けれど、リンカーンが大人気となり、奴隷制度を廃止なんて言い出すと、困るのは南部諸州です。
格安の黒人奴隷を労働力として使っているから、綿花栽培が儲かるのです。
黒人奴隷が使えず、賃金の高い白人労働者を受け入れなければならなくなれば、南部諸州の綿花は値上がりして競争力を失います。
そうなれば、アジア、アフリカの綿花が主流となり、南部諸州は破産です。南部の経済は壊滅してしまうのです。

だから、それならアメリカ合衆国から州ごと離脱しようということになりました。
それまでは、南部11州が、米国経済の牽引役でした。
南部の儲けがあったから、米国経済はかろうじて成り立っていたのです。
それが、南部が独立するとなったら、米国は経済が立ちいかず、破産するしかなくなる。
もっというなら、北部諸州はカネがないから、南部の独立を拒むだけの武力もなければ、兵力もない。それを維持するだけの財源さえもない。
それがわかっているから、南部11州は、堂々と米国から離脱したわけです。

実際に離脱してみると、米国はなんの抵抗もできない。
かろうじて、サウスカロライナ州にある「サムター要塞」が、小規模な抵抗をしてきたから、南軍は、堂々とこれを砲撃し、粉砕しました。
たたかいは、本来なら、この程度で住んだはずだったのです。

ところが、北軍は、わずかの間に220万もの兵力を整え、さらにその全員に最新式の装備を与えたばかりか、大軍を南部諸州にまで進軍させました。
お金がなくて、軍隊さえもたいして持てない(開戦当時の北軍の兵力は陸海あわせてもわずか2万4千)しかなかったはずの北軍が、これだけのことをしたのです。

さらにいうと、北軍は、南北戦争が終わった後に、南軍が外国から調達した莫大な戦費を、全額代払いしました。
さらにその直後には、なんとあの広大なアラスカを、ロシアからキャッシュで買い取っています。
北軍側は、いったいどっからそんなお金が湧いて出て来たのでしょうか。
そこに実は日本が関係しています。

人類が誕生してから、現在に至るまでに世界で算出した金(Gold)の量は、オリンピックプールに換算すると約三杯分になるのだそうです。
そしてそのうち、なんとまるまる一杯分が、実は、日本産です。
マルコポーロは、日本を指して「黄金の国ジパング」と呼びましたが、かつての日本は、まさに「黄金の国」そのものだったのです。

おかげで江戸時代の日本では、庶民が財布に一万円札の代わりに黄金でできた小判を入れていました。
金毘羅詣のような一般庶民の旅でも、旅に出るときは、肌着の衿(えり)に、小判一両をるときは、肌着の衿(えり)に、小判一両を縫いこんでおくのが習慣でした。旅の途中で万一倒れたときに、近隣の人に面倒をみてもらうためのお金です。
考えたらわかるのですが、そこらを歩いたり電車に乗っている人みんなの財布の中に、黄金の金貨が何枚かはいっている。
それが日本全体になったら、どれだけの流通量だったのか。
想像するだけで、どれだけ日本が黄金の国だったのかがわかろうというものです。

すこし余計なことを書くと、金がたくさんあったことで、江戸の昔から歯の治療といえば金歯が主流でした。
ボクたちのおじいちゃんの世代くらいまでは、ニヤリと笑うと、総金歯がごく普通です。
こうした金歯は明治時代くらいまでは、歯医者さんの仕事ではなくて、入れ歯師という専業の職業の人の仕事でした。

入歯師(1800年頃)
なんだか痛そうですね・・・
2828wakaさんのブログ-noname~10.jpg

ちなみに日本では、獅子舞の獅子も、総金歯です。
百獣の王ライオンを総金歯にしておめでたいと喜んでいるのは、おそらく世界広しといえども日本くらいなものだと思います。
余計なことを書くと、人類が虫歯の治療に差し歯をしたのは、紀元前600年頃には、その事例があります。
入歯も、江戸時代には、安価な木製から、高級金歯まで、すでに各種でまわっていました。
まさに日本は、掛け値なし、ほんものの「黄金の国ジパング」だったわけです。

その日本に、嘉永6(1853)年、米国から黒船がやってきました。
南北戦争の8年前です。
鎖国をしていた日本は、とりあえずペリーを上手に追い払い、まる一年、問題を先送りの塩漬けにしました。

もともと米国の日本開国要求の目的は、ひとつには、捕鯨のための立寄港の確保です。
そしてもうひとつが、英国にならぶ繊維製品の販売市場の確保です。

ところがペリーが日本に来てみると、日本人は綿だけでなく、絹も自国で生産している。
しかも紡がれる織物は、まさに工芸品です。
極めて品質が良い。
これでは米国は商売になりません。

開港要求だけなら、強引に大砲をぶっ放して要求を通せば良いのです。
問題は、繊維製品の市場確保で、それをするには、ただ大砲をぶっ放せば良いということにはなりません。
安定的な市場確保のためには、日本とのちゃんとした国交が必要になるのです。
ところが、その市場を確保するにも、日本製品の方が品質が良いわけです。

さて困ったと思っているところに、米本国からタウンゼント・ハリスがやってきました。
ハリスは、リンカーンの子分です。

タウンゼント・ハリス
2828wakaさんのブログ-noname~11.jpg

彼は日本の国内事情を調べました。
そしてわかったことは、日本では金(きん=gold)がめちゃくちゃ安い。

当時、世界の相場は、メキシコ銀貨四枚で、金貨一枚と交換です。
ところが、日本では、メキシコ銀貨一枚と、一分銀四枚が等価で、一分銀四枚と慶長小判一枚が等価です。

つまりメキシコ銀貨一枚を日本に持って行くと、慶長小判一枚と交換してもらえる。
その慶長小判一枚を香港に持ち込むと、メキシコ銀貨四枚と交換してくれるのです。

香港と、日本を、一回往復するだけで、手持ちのお金が4倍に増えるのです。

これを知ったハリスは大喜びします。
で、彼が何をしたというと日本との間で、日米和親条約を取り交わします。
これが嘉永七(1854)年のことで、この条約が不平等条約だと学校では教えるけれど、お時間のある方は、条約の内容をご自分で調べてみてください。
ごくあたりまえのことが書かれているだけです。
若干の港の開港と、領事館内の治外法権です。
後者は、いまでも世界の常識です。


問題は、日米和親条約ではないのです。
そのあとに締結された、和親条約の細則、つまり「下田条約」にあります。
その細則で、ハリスは金と銀の両替相場を固定してしまったのです。

この結果ハリスは、香港と日本を往復するだけで、巨万の富を手にしました。
どのくらい儲けたかというと、なんと京(ケイ)の位まで儲かった。
京(ケイ)というのは、一兆の一万倍です。

当時、小判入手を目的とするメキシコ銀貨の一分銀への両替要求は、一日になんと1万6千枚にも上ったそうです。一日です。
おかげで、国内に流通すべき一分銀は巷から消えてしまうし、日本の小判も国外に流出して、巷から消えてなくなってしまう。

いまの世の中から、こつ然と一万円札がなくなったという姿を想像してみてください。
銀行に行ってお金を降ろそうとすると、1万円札がないので、全部100円玉でいいですか?と窓口の女性に聞かれる。
普通は、誰だって驚くと思います。

当然日本国内ではたいへんな混乱がおきました。
もう両替する小判が、国外に流出してしまって、手元にありませんというと、こんどはハリスは、金が足らなくて小判ができないなら、小判の中の金の含有量を減らしてでも小判を発行せよと、ものすごい剣幕で幕府に迫ったのです。

圧力に屈した幕府は、見た目が同じで含有金量が慶長小判の約八分の一しかない万延小判を鋳造しました。
これが万延小判です。
万延元(1860)年の出来事です。
ちょうど南北戦争が起きる一年前のことです。

ハリスは、リンカーンの子分だと書きました。
してハリスは米国政府の人間です。
ですからハリスは、もちろん個人としてもそれなりに儲けたろうけれど、儲けたカネは、基本、すべて米国政府の収入です。

米国は、こうして世界の富の3分の1の金(Gold)を手に入れました。
そしてそのカネで、200万の北軍を編成し、最新式兵装を整え、南北戦争を戦い、さらに南軍の借金を立て替え払いし、そしてアラスカまで現金で購入したのです。

もうひとついうと、南北戦争では、大量の銃器や大砲が使われました。
けれど、戦争が終われば、それらは無用の長物です。
南北戦争は1865年に終わるけれど、これは日本でいったら慶應元年です。
で、米国がどうしたかというと、この中古品の銃器、弾薬、大砲を、日本に売りつけました。
この結果起きたのが、慶應4年にはじまった戊辰戦争です。

ただし、このとき米国は、自分で直接、官軍か幕軍のどちらかに一方に武器を売るということをしませんでした。
米国は、フランスと英国に、その中古の銃器を降ろし、フランスと英国がそれぞれ薩長、幕府側について、両方に武器を売りました。

つまり、官軍も幕軍も、出所は同じ武器をつかったわけです。
ですから、両軍とも、同じ武器を使っています。
なぜなら、それは南北戦争の中古品だからです。

日本からみると、アメリカに金貨をだまし取られ、国内の金貨が空っぽの状態で、青息吐息でさらにアメリカから中古武器を買って戊辰戦争をして、国内で殺しあいまでさせられているわけです。

そもそも戊辰戦争は起こす必要のない内戦です。
なぜなら幕府は既に大政を奉還しているのです。
大政奉還したということは、すでに政権交替した、ということです。
政権交替は済んだのです。

政権交替は済んだのです。
敢えて内戦までする必要も理由も、本来ありません。
しかも、戊辰戦争で使われた新式銃や新型大砲等は、戊辰戦争前には、日本にはなかったものばかりです。

実際には、まず金の流出があり、これによる庶民生活を巻き込んだ経済の大混乱があり、徳川政権への不信感が増したところに、小判の改鋳が起きて、国内経済が大混乱し、これで完全に徳川政権が政権担当能力を、失ってしまったわけです。
そこにフランスと英国がそれぞれ幕府側、薩長側に付き、互いの戦争をあおる。
米国は、先にフランス、英国に武器を売りつけています。
フランスと英国は、なにがなんでもそれを売らなくちゃいけない。
売れば大儲けできるし、売り損なえば、破産です。
その手のひらに、薩長も、幕府も乗ってしまったわけです。

おかげで、古代から日本では、戦いは武士たちの専売特許で、百姓町人たちには火の粉がかからないというのが、我が国の歴史であったにもかかわらず、なんと戊辰戦争では、その百姓町人が武器を手にして戦うという、我が国の歴史では類例のない前代未聞の出来事が起こっています。
これが戊辰戦争です。

この戦闘でどれだけ多くの百姓町人が犠牲になったか。

締結したばかりの日米和親条約を、わずかの間に「補修」する。
このはやすぎる「補修協約」は、おそらくはこの78日間の間のどこかで、ハリスが金と銀の交換相場に気がついた、ということであったのだろうと思います。

その結果、このカラクリに気付かなかった日本は文字通り「大金」を失い、気付いた米国は、儲けたけれど本国で120万人の命が奪われました。
そして日本は、戊辰戦争で8420名(新政府軍3550名、幕軍4690名)の尊い命を失いました。

まさに、世界は「腹黒い」。
だからこそ、私たちは、しっかりと歴史を学び、しっかりとした国家観をもち、しっかりとした海外事情を把握していかなければならないのです。
そうでなければ、ご先祖様にも、未来を担う子供達にも申し訳ない。

とかく大東亜戦ばかりが失政のように言われますが、私からみたら、幕末から平成にかけての最大の失政は、下田協約であったろうと思います。
たったひとりの責任者が、はやすぎる「補修」ということに何の疑いも持たず、大事なこ見落とした。
たったそれだけのことで、膨大な数の人命が失われているのです。
日本は、いろいろ反省しろとか諸外国からやかましいことを言われていますが、本当に反省しなければならないことは、こういうことなのではないかと思います。


ねずさんの ひとりごとから転載させて頂きました珵

その後、白人から騙された日本は、隣国がしっかりしない為に、日本は立て続けに戦争しなければならなくなり、外貨を稼がないといけなくなった、公害になっても、産業に力を入れる事になった。