第二章 巌門の朝
電話のベルは、乾いた音で鳴り続けていた。
まだ朝の空気が冷たく残る駐在所の中で、その音だけが妙に浮いている。
石川県・能登。巌門駐在所。
古びた机の上で震える黒電話を、**高田外冶(たかだ そとじ)**はしばらく見つめていた。
——こんな時間に鳴る電話に、ろくな用件はない。
長年の経験が、そう告げている。
だが同時に、胸のどこかがわずかに高鳴っていた。
受話器を取る。
「はい、巌門駐在所」
耳元に流れ込んできた声は、やや上ずっていた。
『ああ……高田さんか。塩谷や、塩谷一夫や』
聞き慣れた声だった。
病院事務長の塩谷一夫。磯釣り仲間でもある男だ。
だが、その声には、いつもの軽さがない。
高田は眉をひそめた。
「なんや、朝からえらい声しとるな。どうした」
電話口の向こうで、一瞬、間が空く。
ためらい——あるいは、言葉を選んでいるような沈黙。
『いやな……ちょっと気になる患者が運ばれてきてな』
その言い方に、高田は無意識に背筋を伸ばした。
“気になる”——その曖昧さが、逆に引っかかる。
「怪我人か? 事故か?」
『それがな……巌門で倒れとった娘や』
その一言で、空気が変わった。
高田の視線が、窓の外へ流れる。
まだ陽の低い海。岩肌に砕ける白波。
観光名所であると同時に——
“訳ありの人間が来る場所”でもある。
「……誰が見つけた」
『多田や。清吾』
その名前に、高田の呼吸がわずかに止まった。
「多田……清吾?」
幼馴染だった。
そして——
数年前、娘の失踪届を出した男でもある。
記憶が、よぎる。
夜の港。
灯りの少ない岸壁。
「恵子を見んかったか」と繰り返す、多田の顔。
高田は無意識に奥歯を噛んだ。
「……それで?」
『最初はな、帰ってきた娘さんか思うたんやけど……違うみたいや』
「違う?」
『うん……顔は似とらん。けどな……』
言葉が途切れる。
受話器越しに、塩谷が何かを迷っているのが分かる。
高田は苛立ちを抑えきれず、低く言った。
「はっきり言えや」
小さな息が、受話器の向こうで漏れた。
『……妙に、綺麗なんや』
その一言は、場違いだった。
だが、なぜか妙に引っかかる。
「はあ?」
『いや、そんなん言うと変やけどな。怪我も大したことないし……ただ倒れとっただけやのに』
塩谷は言葉を探すように続ける。
『なんちゅうか……場違いなんや。あの場所におる感じやない』

高田は、ゆっくりと受話器を持ち替えた。
耳元に押し当てる圧が、わずかに強くなる。
「……年は?」
『二十そこそこやろな。若い娘や』
「身元は」
『分からん。持ち物もほとんど無い』
高田は、机の上に置かれたメモ帳に視線を落としたが、ペンは動かなかった。
——巌門。
——若い女。
——身元不明。
偶然にしては、揃いすぎている。
「……分かった」
高田は短く言った。
「今から行く。細かい話はその時や」
受話器を置くと、しばらくその場に立ち尽くした。
静寂。
さっきまで鳴っていた電話の余韻が、まだ耳の奥に残っている。
高田はゆっくりと息を吐き、帽子を手に取った。
外へ出る。
潮の匂いが、強く鼻を打った。
冷たい風が頬を撫でる。
パトカーに乗り込み、エンジンをかける。

低い振動が、体に伝わってきた。
(……嫌な感じや)
理由は分からない。
だが、長年の勘が静かに警鐘を鳴らしていた。
ハンドルを握る手に、わずかな力がこもる。
車は駐在所を出て、海沿いの道へと滑り出した。
朝の光に照らされた巌門の岩肌が、遠くに見える。
観光客には絶景。
だが——
(あそこには、戻ってこれん奴もおる)
高田はアクセルを踏み込んだ。
その時、まだ彼は知らない。
これから出会う女が、
ただの“記憶喪失者”ではなく——
国家をも巻き込む存在であることを。
そして、
“赤いコートの女”という記憶が、再び動き出すことを。
つづく


