現場検証に立ち会う宮崎

 

199030日、東京地裁宮﨑被告の裁判が始まった。世間の関心が異常に高いこの裁判は、50席の一般傍聴席1591人が殺到した。罪状認否で宮﨑被告は「殺意はなかった。わいせつ目的で誘拐したことはない」と起訴事実の一部を否認。「綾子ちゃんの頭部と手足を御獄山の山林に遺棄したか」と問われた際、「両手は焼いて食べた」と供述し法廷に緊張が走った。事件全体について「覚めない夢を見て起きたというか、夢を見ていたというか」と述べた。

 

25日の第回公判では、裁判長に「何か言いたいことはありますか?」と問われた宮崎被告は「ビデオテープ、車、免許を返してください。車に乗れなくなると困るので、油(ガソリンを入れておいてください」と真顔で言って周囲をあきれさせた。その後に行われた被告人質問では、被害者を誘拐した時の心境について問われると、宮崎被告は「女の子に出会って、急に子供の頃に戻ったような気持ちになった。(被害者と)一心同体になってドライブの中にあった」と説明した。

 

殺害した理由を問われると、宮﨑被告は「信頼していた女の子が泣き出して急に裏切った時、全身がネズミ色で、顔もネズミの『ネズミ人間』が出て来て、逃げ帰る時、女の子が倒れていた」と、殺したのは自分ではなくネズミ人間とでも言いたげな意味不明の発言をした。また、遺体を肉物体と呼び、切断した行為は「子供の頃にテレビで観た改造人間の手術」と説明。さらに「女の子の血を飲んだ」と言ったり、「夢の中に子供たちが現われ、ありがとうと言っている」とも供述した。

 

199012より、宮﨑被告の刑事責任能力の有無を調べるための精神鑑定が実施された。この精神鑑定は過去の動物虐待などの異常行動を焦点に、精神科医人と臨床心理学者ひとりによって行われた。宮﨑被告は被告人質問で、「亡くなった祖父を復活させるため、祖父の骨を食べた」と話し、その理由を「祖父復活した時、骨がだぶってしまうから」と説明していた。この件については、供述内容具体性に欠け曖昧だったことから事実ではないとみなされた。

 

199231日、精神鑑定書が提出され、「宮﨑被告は人格障害」との結果が示された。祖父の骨を食べた件については、弁護側は「墓石が動かされていた」ことを根拠に事実だと主張したが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した宮崎被告は公判の間、法廷内でのやり取りには興味を示さず、常に便箋に何かを描き続けていた。ただ被告人質問については「晴れの舞台」と表現したことから、当初から「異常性を意図的に演出している」と疑う声あった。

 

1218から、弁護側の要請により宮﨑被告の2回目の精神鑑定が行われることになった。この再鑑定は人の鑑定医により実施された。199412月、鑑定医のひとり統合失調症、残りのふたり解離性同一性障害とする鑑定結果が提出された。検察側は論告で「これまでの不可解な言動は自己の異常性を強調するため虚偽を述べたもの」と主張し、死刑を求刑した。一方、弁護側は「犯行当時、心神喪失もしくは心神耗弱だった」として、死刑回避を求めた。

 

199714日、第一審判決公判で、東京地裁は宮﨑被告に求刑通り死刑を言い渡した。裁判長は「極端な性格的偏り(人格障害)はあったが、精神病の状態にはなかった」とする第回鑑定を採用し、「理非善悪を識別し、それに従って行動する能力を持っていた」と判断した。裁判長は「食人行為は虚偽の疑いが濃厚」とする検察側の主張を認め、そのような異常な行為を供述したのは拘禁による影響で、犯行動機についてはわいせつ目的であった」と認定した。

 

控訴審で弁護側は犯行当時の宮崎被告の責任能力の有無を争うととともに「取り調べ中に警察官から暴行を受け自白を強要されており、捜査段階の供述はまったく信用できない」として、自白に依拠した一審判決には事実誤認があると主張した。200128日、東京高裁は一審判決を支持し、弁護側の控訴を棄却した。裁判長は自白の内容について「内容が具体的で詳細」と述べ、犯人しか知り得ない秘密の暴露も含まれているとして信用性を認めた。

 

最高裁の弁論で、弁護側は宮崎被告の幻聴が単語から、『会話に変わり、2002年から向精神薬の投薬を増やしても改善しないことを挙げ、「事件当時から慢性的な精神疾患だったことは明らかであり、心神喪失もしくは心神耗弱だった」と主張し、極刑回避を求めたそのうえで、審理を高裁に差し戻し、再度の精神鑑定を行うよう求めた。対する検察側は「証拠を残さずに回もの犯行を繰り返している。犯行当時、病的な精神状態だった形跡はない」と反論した。

 

200617日の判決公判で、最高裁は被告側の上告を棄却した。これにより宮﨑被告の死刑が確定。裁判長は「宮﨑被告に責任能力があるとした一審・二審の判決は正当として是認できる。自己の性的欲求を満たすための犯行で、動機は自己中心的で非道。酌量の余地はない」と断罪した。2008年17日、死刑確定者となっていた宮崎は鳩山邦夫法務大臣の発した死刑執行命令により、収監先の東京拘置所で死刑を執行された。享年45歳だった。

 

宮﨑勤196221日、東京都青梅市の公立総合病院で体重2165gの未熟児として生まれた。東京都五日市町の自宅は1000㎡と広く、当時家には祖父母と両親、結婚前の叔母3人が住んでいて、に妹がふたり誕生した。宮﨑家は曾祖父が村会議員、祖父は町会議員、父親は1954年に印刷会社「新五日市社」を設立し、新聞の折り込みのチラシ広告を印刷していたが、1957年はコミュニティ紙『秋川新聞』を創刊するなど、地元の名士であった。

 

宮﨑は神経が過敏で寝つきが悪く、少しの物音ですぐ目を覚まし、手足を震わせて泣いた。そんな時、共働きで忙しい両親の代わりに面倒を見るのは祖父と住み込みの男性だった。この男性は当時30歳ぐらいで、子どもの頃に脳性麻痺を患ったため両脚に障害を持ち、軽度の精神障害もあったが、宮﨑と一緒になって遊ん。祖父は宮﨑の手を引いて川山に連れて行った。宮﨑の世話をしてくれて、いろんなことを教えてくれたのも祖父で、宮﨑は祖父が心の拠り所だった。

 

宮﨑は歳の頃、手に障害があることが判明する。宮﨑には「両側先天性橈尺骨癒合症」という両手の掌を上に向けることができない先天性の障害を持っていた。珍しい病気で、手術の成功率が%と低いこともありそのまま放置された宮﨑は歳半の時、バスで時間かけて私立『秋川幼稚園』に通うが、手の障害は幼稚園の遊戯やおやつを貰うことに支障があった。また、茶碗を持つこともできず、トイレなどにも苦労した。買い物の際も、釣り銭を受け取ることができなかった。

 

小学生時代の宮崎

 

1969月、五日市町立五日市小学校に入学。しかし、手の障害に加え、内向的な性格と協調性のなさで、友達ができなかった。放課後も自分の部屋にこもってマンガを読んだり、ゲームをして遊んだ。当時、小学生が自分専用の部屋やテレビを持つことは珍しく近所では宮﨑だけだった。学校の成績は良いほうで、欠席もほとんどなかった。ところが、家のことを書く作文は家業の印刷関係のことは詳し過ぎるほど書かれているのに、家族の記述がまったくなかったという

 

中学時代の宮崎

 

1975月、宮﨑は町立五日市中学校に進学したが、やはり友達はいなかった。宮﨑は年は陸上競技、年の時は将棋クラブに入っていた。当時の同級生は宮﨑について「将棋は強かったが、たまに負けると顔を歪めて物凄く悔しがった。そんな時は将棋の本をどっさりと買い込み、腕を磨いてから必ず再挑戦するほど負けず嫌いだった」と振り返る。一緒に遊ぶ時も自分勝手さが目立ち、「宮﨑が同窓会に出席するなら行きたくない」という者が結構いたという。

 

学生時代の宮崎

 

1978月、東京都中野区の明治大学付属中野高校に入学、片道時間かけて通学した。高校時代の同級生は宮﨑について手の障害のことで精神的に疲れていたように感じた」と話す。さらに長距離通学による肉体的疲労が重なって帰宅しても、部屋にこもって家族ともほとんど口をきかなくなり、意思表示もしなくなった宮﨑は明大への推薦入学を希望していたが、入学は叶わなかった。1981月、中野区の東京工芸大学短期大学に推薦入学した。

 

1983月、宮﨑は叔父(父親の弟)の口利きで東京都小平市にある印刷会社に就職した。会社では印刷機のオペレーターとしての業務や、印刷物の梱包などを担当していた。作業そのものは決して難しくなかったが、宮﨑の勤務態度はまったくの無気力で怠慢だったため、同僚らの評判は芳しくなかった。理由も告げす突然「帰ります」と言って退社したこともあったが、口をきいてくれた叔父がこの会社の得意先だったこともあり、特に咎められることもなかったという。

 

宮﨑が23歳の1986月、会社を依願退職して自室に籠ってしまう。父親が家の仕事を手伝わせようとしても、短大や印刷会社で充分に技術を習得していなかったため、ほとんど何もできなかった。月に運転免許証を習得し、月頃から宮﨑は家業の印刷会社を手伝うようになった。仕事は「チラシ広告の原稿取り」や「刷り上ったチラシを新聞店に届ける」などの簡単な内容で、に『秋川新聞』の配達もするようになったが、午前中に仕事が終わり、午後は暇だった。

 

宮﨑はこの、アニメの同人誌を約500部作るなど漫画の世界にも興味を示していたが、自分本位な性格のため同人誌仲間にひどく嫌われ、結局同人誌は号だけで終わってしまった女性関係を心配する父親は宮﨑に1986月から11月にかけて回、見合いをさせている。父親は嫌がる宮﨑を何とか説得して見合いに出席させたが、宮﨑は「どうも」と言ったきり下を向いて黙り込み、ほとんど相手からのかけを無視たためすべて相手の方から断られている

 

日産ラングレー

 

12月末、親が仕事用として宮﨑に紺色の日産ラングレーを買い与えた。宮﨑は当時すでに使用が禁止されていた暗い色のフィルムを車の窓ガラスに貼り、外から車内が見えないようにした。この車を得たことが宮﨑の行動範囲を広げ、事件を起こす要因になった。宮﨑は相手の都合など考えず、いきなり車で訪ねて友人をドライブに誘った。ドライブといっても景色のいい道を行くわけでもなく、荒っぽい運転で好き勝手に走るだけ。車内では特に会話もなくカセットを聴いていた。

 

宮﨑は西多摩地区から都心・埼玉県へと走行範囲を次第に広げていった。ビデオショップにも頻繁に出入りするようになり、複数のビデオサークルの会員になった。ビデオサークルでは、会員同士が自分の居住地域で放送されないテレビ番組の録画を代行し合うのが利点だが、宮﨑は自分の頼みは聞いてもらっても、相手からの要望には応じなかった。ビデオもサークル会員から借りるだけで、自分は一切貸さないといった自分勝手な性格が災いして仲間外れになっていった。

 

198811日、祖父が犬の散歩中に脳溢血で倒れ、日後の16日に死亡した。祖父の死は宮﨑に大きな衝撃を与え、それ以降、行動に変化が現れる。21日、宮﨑は形見分けの席で親戚に暴言を吐き、日の四十九日の法要では家族と言い争って窓ガラスを割った。近所の女の子をカメラで撮影するようになったのも、祖父が亡くなってからだった。月から11月にかけて、五日市町内のビデオショップでテープ45本を万引きしていることも確認され

 

③その後の家族編に続く