造田博(23)は、不遇な少年期を経て各地を転々とし、東京都足立区で新聞配達員をしていた。1999年9月1日、造田は朝刊の配達に遅刻したことから、店長の勧めで連絡用の携帯電話を購入した。9月3日夜、造田が従業員寮で携帯電話の操作方法を覚えようとしていたところ、1本の無言電話がかかってきた。電話は新聞販売店の同僚からだった。この同僚は造田の嫌いな努力をしないタイプの人間だったが、しつこく求められ仕方なく電話番号を教えていた。
造田は高校生の時から、ひとりで苦労して生きてきた。なぜなら、両親はギャンブルで作った借金から逃れるため、高校生の彼を残して夜逃げしたからだった。そんな『頑張っても報われない』と痛感していた彼にとって、『努力をしない人間』から踏みにじられるような行為は我慢ならなかった。この無言電話は造田に衝動的な怒りを生じさせた。そしてこれが引き金となり、抱いてきた社会に対する不満や、享楽的に生きる人々への反発心が怒涛のように湧き上がってくるのを感じた。
『このままでは自分のように努力をしてきた者がその努力に応じた評価をされないままだ』と考えた造田は『努力しない人間に対する無差別殺人』を行って世間を驚愕させ、本当の自分を認めさせることを決意した。造田はレポート用紙に「わし以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお、わしボケナスのアホ全部殺すけえのお」と書き、これを自室の扉に張り付けた。そして翌4日午前3時頃、デイパックを持って従業員寮を出て、東京でも屈指の繁華街である池袋に向かった。
造田は池袋にはこれまでも休日に行くことがあって、サンシャイン通りは常に人通りが多いことを知っていた。池袋に到着した造田は東急ハンズで凶器にする包丁と金づちを購入した。しかし、この時点では未だ犯行を躊躇する気持ちも残っていた。実際に無差別殺人をすれば、兄ら親族に迷惑をかけることになる。それが気がかりであった。そんな気持ちを抱いたまま池袋界隈で時間を潰し、仕事で溜まっていた疲労も感じていたことから、夕方頃に港区のカプセルホテルに宿泊した。
翌9月5日~7日にかけても、毎日サンシャイン通りへ向かいはしたが、兄らに迷惑がかかることを考えると、犯行を実行することはできなかった。造田は映画を見たり、ゲームセンターに入って時間を潰し、夜はカプセルホテルに宿泊していたが、社会や世間の人々に対する不満は心の奥にくすぶり続けていた。9月8日、造田はそれまで気にしていた兄らへの思いを断ち切り、遂に犯行の決意を固めた。そして午前10時過ぎ、港区のカプセルホテルを出ると池袋に向かう地下鉄に乗った。
池袋に到着すると、造田はサンシャイン通りを目指して歩いた。目的の場所に行く途中で朝食をとり、サンシャインシティの地下通路からエスカレーターで東急ハンズの正面入口前に着いた。造田はここを凶行を実行する場と決めており、デイパックを背中から降ろして包丁と金づちを取り出し、両手に固く握り絞めた。「ウォー!むかついた。ぶっ殺す!」と叫びながら、造田は目に付いた若いカップルを追いかけた。ところが、このカップルは造田の怪しい挙動に気付いて逃げ去ってしまった。
午前11時35分頃、造田が次にターゲットに決めたのは通り魔が待っているとも知らずサンシャインシティのエスカレーターを上ってきた高齢夫婦であった。いきなり造田は妻(66)の方を先にを切りつけ、狂ったような勢いで夫(71)にも襲いかかった。さらにたまたま通りがかった別の夫婦の女性(29)をも刺した。この犯行で高齢夫婦の妻が死亡し、夫は全治3か月の重傷を負った。そして29歳の女性も緊急搬送された新宿区内の病院で、出血性ショックにより亡くなってしまった。
この犯行の後、造田はサンシャイン通りを池袋駅方向に走った。その途中で造田は私立高校1年生の4人グループに遭遇した。このグループうち3人の学生に切りつけ、さらに別のふたりも襲いかかり、5人が負傷した。造田は刃の折れた包丁を途中で投げ捨て、池袋駅前まで逃走した。しかし、事件を目撃して追ってきた通行人らに追いつかれて格闘となった。そして路上に倒された造田は、5~6人の男性に押さえ込まれ、通報を受け駆けつけた池袋署員らに現行犯逮捕された。
事件現場となった東急ハンズ池袋店
造田博被告は起訴事実を全面的に認めていた。そのため争点は造田被告の事件当時の刑事責任能力の有無に絞られた。検察側による起訴前の簡易鑑定や、専門家による精神鑑定も「責任能力に問題はなかった」との結論だった。しかし、弁護側は「通行人を無差別に襲った動機が不可解である」と「数年前から外務省などに意味不明の手紙を送っていた」のふたつの理由から「精神分裂病による妄想の影響下にあり、当時は心神喪失か心神耗弱の状態だった」と主張した。
2002年1月18日、判決公判において造田被告は死刑を言い渡された。「犯行当時は心神喪失か心神耗弱の状態だであった」とする弁護側の主張は退けられた格好となった。裁判長は判決理由説明のなかで動機について、「自分のように努力している者が評価されない、との不満を抱いていたところ、無言電話が引き金になり、社会に反発心を募らせて犯行を決意した」と、検察側の主張に沿った認定をした。判決をうけて造田被告側は量刑不服として東京高裁の控訴した。
控訴審でも、造田被告の「事件時の責任能力の有無」が争点となった。弁護側は精神科医の意見書や、事件前年に無計画に渡米するなど不可解な造田被告の行動から、「造田被告は統合失調症による妄想で事件を起こした。責任能力がなく無罪か、刑が軽減されるべき」と主張した。再度の精神鑑定を申請したが、認められなかった。裁判長は完全責任能力を認めたうえで、「他に類を見ない凶悪な犯行で、重大で深刻な結果を生んだ」と指摘して控訴は棄却された。
最高裁の弁論でも弁護側は「当時、判断能力がない心神喪失状態だった。刑事責任能力はなく無罪」と主張。検察側は「被害者や遺族の処罰感情は厳しい」として上告棄却を求めた。2007年4月19日の判決公判で裁判長は「被告は社会に不満を抱いていたが、悪戯電話をきっかけに、うっ積した感情を爆発させた」と指摘。「犯行態様は冷酷、非情、残忍で、被害者には落ち度がなく、社会に与えた衝撃も大きい」と断じ、死刑はやむを得ない」と述べ、上告を棄却した。
造田博は1975年11月29日、岡山県倉敷市で生まれた。家族は両親と兄の4人で至って普通の家庭だった。小中学校時代の造田は特に不自由なく暮らしていた。そして学業に優れていた造田は県内でも有数の進学校である県立高校に進学している。造田は将来、事務系の仕事に就きたいと考えていたことから、大学進学を見据えての選択だった。ところが、この高校在籍中に、彼の両親はギャンブルで作った借金から逃れるため、造田を残して夜逃げしてしまうのだった。
両親がギャンブルに嵌まったのは造田が小学校高学年の頃、父親が多額の遺産を手にしたのがきっかけだった。やがて、遺産を使い果たしてもギャンブルは止められず、消費者金融からの借金は4千万円。家を出た両親は時々夜遅くに生活費を渡しにくるだけになった。そのため、造田は大学進学をあきらめてアルバイトに専念するようになる。高校も3年になる直前の1993年3月31日付で退学。それでも造田は両親は自分を見守ってくいると思い、ひとり自宅で生活を続けた。
しかし、そのうち両親は造田を見捨てたように、まったく家に帰らなくなってしまった。造田は昼夜構わず家にやって来る消費者金融の借金取り立てに耐えられなくなったことから、1994年1月頃、広島県福山市に住む大学生の兄を頼って、身を寄せることにした。その後、兄の紹介で市内のパチンコ店に住み込みで働き始めた。ところが、パチンコ店の仕事は造田にとって体力的にきつかったことから3月末に退職した。以後、造田は岡山県・広島県・兵庫県内で職を転々とした。
造田は職場では仕事はもちろん、人間関係においても問題を起こさないよう嫌なことも我慢するなど努力した。その甲斐あって評価は得たが、体力を使う仕事であったことや給与面で満足できなかったので、数か月毎に職を変える生活だった。造田は1996年11月頃、職を求めて東京へやって来た。ところが職に就かないうちに、ナイフを所持していたことで銃砲刀剣類所持等取締法違反により現行犯逮捕され、罰金刑に処せられてしまう。その後、造田は愛知県内で就職した。
この頃から造田は自分が理不尽にも強いられた苦労や、重ねてきた努力がまったく報われないことに次第に不満を募らせていった。街中で見かける楽しそうな若者らの享楽的な姿を不快に感じ、造田のなかに反発する気持ちが芽生えていった。1997年夏頃、造田はこうして鬱積した不満を訴えるべく、なぜか外務省に難解な内容の手紙を多数送り付けている。また兄に対しても同様に理解の困難な手紙を数通送った。この間、造田は生活のため、京都や東京で転職をくり返した。
造田はテレビや本で得た情報から、「アメリカは日本と違い、努力が報われる国」というイメージを持って憧れを抱くようになった。そしてアメリカで新しい生活を始めようと思い立った。1998年6月24日、無謀にも造田は単身渡米した。だが、所持金を使い果たして行き倒れ、日本領事館に保護される。そして領事館の紹介で、現地のキリスト教会の仕事を手伝うのと引き換えに衣食の面倒を見てもらうことになった。造田は後に「この時期が人生で最も充実していた」と回想している。
しかし、ビザの期限が切れ9月23日に帰国を余儀なくされた。帰国後は愛知県内で工場の作業に従事した。その後、1999年4月から東京都足立区内の新聞販売店で配達員として働き始めた。ここでは具体的な不満はなかったが、「日本はアメリカとは違い、自分のように努力をしている者が評価されない」という不満を抱き続けていた。1999年9月3日、買ったばかりの携帯電話にかかってきた1本の無言電話が引き金となって、それまで溜め込んだ不満が一気に爆発する。