ジーン・ハリス

 

才女であるジーン・ハリスがドクター・ハーマン・ターノワーと出会ったのは1966年、ニューヨークで開かれたディナー・パーティーの席上のことであった。ふたりはすぐに互いの知性に惹かれ合った。男女の関係になるまではそう時間はかからなかった。既に社会的に成功していたふたりは、もう若くはなかった。フィラデルフィアの学校で校長をしていたジーンは当時42歳だった既に、ふたりの息子がいたが、夫とは1965年に離婚している。もう煩わしい結婚のことなど考えたくもなかった。

 

一方56歳のターノワーは、ブルックリン育ちのユダヤ人という恵まれない環境ので学業に励み、心臓医として自らの診療所を持つまでに至った。人生をひた走って来たは結婚のことなど考えたこともなかった。そして、成功した今、彼は独身貴族としての優雅な暮らしを楽しんでいた。そんな訳で「大人のふたり」は結婚を前提としない付き合いを14年も続けた。遠く離れて暮らすふたりだったが、週末は大概ニューヨークのスウィートで過ごしたし、 許す限り旅行にも出掛けた。

 

ジーン・ハリスは1977年、ヴァージニア州マクレインの名門お嬢さま校であるマデイラ・スクールの校長に就任することになった。一方、ターノワー知人から頼まれて執筆した『スカーズデイル・ダイエット』という書籍(彼が経営するスカーズデイル・メディカル・センターで患者に提供していた食事を紹介したダイエット本)がベストセラーになり、あれよあれよという間に有名人になってしまった。だが、この頃からジーンターノワーの関係に亀裂が生じ始める。それは、1979年のことでだった

 

『スカーズデイル・ダイエット』の執筆にはジーンの多大な貢献があったにもかかわらず、ターノワーの関心は看護師であるリン・トライフォロス(37)に移り始めていたのである。大人のジーンはこれまでもターノワーの些細な浮気は見逃してきた。ところが、今回は様子が違った。どうやらターノワー浮気ではなく本気のようなのだ。それまでジーンが同伴していたウエストチェスター心臓病協会主催の晩餐会に今年はお呼びがかからなかった。ターノワーはリンを同伴しようとしていたの

 

『スカーズデイル・ダイエット』の口絵写真

 

ターノワーが書いた『スカーズデイル・ダイエット』の口絵写真もジーンを大いに苛立たせた。ターノワーとリンが仲良く並んで、読者に向ってにこやかに病人食を勧めるその写真は、ジーンにしてみれば自身に対する挑発のように見えたことだろう。彼女が嫉妬に狂ったとしても致し方ないかもしれない。1980年3月9日嫉妬に苛まれたジーンは自分の思いの丈を便箋14枚にも渡って書き綴り、ターノワーに送りつけたが、モヤモヤした気持ちは一向に治まらず、彼女の激情が爆発する。

 

翌日の深夜11時にターノワーの家に押し掛けたジーンは、ガレージから侵入すると、32口径の引き金を4回引いた。家政婦の通報で警察が駆けつけた時には、は既に手後れだった。公判でのジーンは礼儀正しく、落ち着いていて、とても殺人事件の被告とは思えなかった。やがてプレイボーイとしてのターノワーの素行の悪さが明るみになると、彼女への同情が集まった。「彼の前で自殺しようとしたが止められて、揉み合ううちに銃が暴発した」という彼女の弁明は通るかに思われた。

 

ところが、ジーンが犯行の前日にターノワー送りつけた14枚にも渡る恨み節が綴られた便箋、一般に「スカーズデイル・レター」と呼ばれることになる手紙が法廷に提出されると流れが一転して変わった。そこには私はあなたの財布から2回ほどお金をくすねました。あのリンとかいうキチガイ売女が私の人生をめちゃくちゃにした代償です」「私にはくだらない遊びに使うお金なんてまったくないのに、あなたにはあのキチガイ売春婦に使うお金が有り余っているのですね」など書かれていた。

 

便箋14枚にわたって、リン・トライフォロスに対する口汚い罵りとターノワーに対する強烈な恨みと怒り、そしてカネに対する病的なまでの執着で溢れていたのだ。とても、今そこの被告席に座っている知性を漂わせている女性が書いたものとは思えなかった。この手紙はジーンに殺人の動機があることを雄弁に物語っていた。陪審員は有罪を評決し、ジーンは終身刑を宣告された。聡明で文才のある彼女は刑務所制度の問題をテーマにした本を獄中で2册執筆したそうである。