堀越喜代八
1967年3月15日、横浜市戸塚区にあるアパートに住んでいた母子が顔見知りの堀越喜代八によって殺害されるという事件が起こった。当時の堀越には、婚約者がおり、犯行決行の日は結納の日であった。堀越が婚約者に手渡した結納金は顔見知りの母子を殺して奪ったものだった。犯人である堀越喜代八と被害者とは、以前からの顔見知りだった。堀越が最初に知り合いになったのは、被害者の夫のほうだった。
被害者の夫と堀越は、ベトナムで建設中のダムの工事に電工技師として共に派遣されたことから知り合いになる。日本から離れた異国の地で共に働いていたふたりは同世代であったこともあり、すぐに意気投合し友人同士になった。夫が南ベトナムの工事現場で働いている頃に、診療所へ看護師として派遣されてきたのが被害者となる妻だった。夫婦はベトナム時代に結婚し、堀越にも家族のような付き合いをしてくれた。
ベトナムから帰国した後も、堀越と被害者夫婦との親しい交際は続いていた。堀越は被害者の新婚家庭にもたびたび招かれており、被害者の夫が外国に派遣されて留守のときもよく顔を出すしていた。傍から見ればまるで親戚のような仲の良さだった。また堀越も被害者夫婦に結婚の相談をしたり、婚約者も紹介するなど信頼を寄せていた。堀越が婚約者を紹介し、結婚を報告たと際は被害者夫婦も喜んでくれた。
事件当日、堀越は婚約者に対して結納金8万円を届ける予定だった。ところが、堀越は愚かなことに前日に酒を飲んで結納金を使い込んでしまった。堀越は考えあぐねた末に被害者に助けてもらおうと決めた。堀越は被害者である母親(25)の部屋に入ると、結納金の補填のために借金を申し込んだ。だが、母親から借金の申し入れを断られてしまい、カッとなってそばにあったスカーフで母親の首を絞めて殺害した。
堀越は、たかが8万円のために、まるで親戚のような付き合いをしていた被害者を殺害してしまった。次に堀越は、近くにいた1年3か月の赤ん坊の首に手をかけて絞殺した。母子殺害後、郵便通帳を盗み、ガスレンジとガスストーブからガスを放出して放火自殺を演出して逃走した。アパートから300mの郵便局で4万9900円を引き出した。そして、夕方になって隣に住む主婦が異変に気が付いて戸塚署に通報した。
被害者の母親は用心深い性格で、普段から見知らぬセールスマンからの訪問にドアを開けたことはなかったという。そのうしたことから、警察は最初から顔見知りの犯行を疑っていた。また、現場検証の結果、茶碗の指紋が消され、目撃者もいないことから、計画的な犯行と考えられた。被害者宅の隣に住む主婦は警察の取り調べに対し、午前11時半ごろに悲鳴を聞いたが、悲鳴は一度だけであとは静かだったと証言した。
戸塚署の刑事が聞き込み捜査をしていた頃、堀越は婚約者の実家がある千葉にいた。婚約者の実家で事件のニュースを知り、慌てた堀越は婚約者を伴って彼女の実家を出た。事件から4日後の3月19日、郵便局員が覚えていた容貌は堀越に酷似し、残されていた支払い伝票から堀越の指紋が検出されたことから、堀越が犯人と断定された。翌日の20日に逮捕状が出され、21日には全国に指名手配された。
その頃、堀越は自殺するために、婚約者と下田の旅館に投宿していた。ひとりで死ぬのは怖いから、婚約者に一緒に死のうと思っていたが、自殺しようにもなかなか実行に移せなかった。そして、堀越の行方を追っていた警察は下田に滞在していることを突き止め、22日の夕方に逮捕した。裁判の結果、堀越に下されたのは死刑であった。死刑確定後の一時期は、半狂乱になり、泣きわめいたりしたこともあったという。
こうした中、出会ったのが短歌だった。堀越は短歌にのめり込み、辞世の句も残している。世間から非難された堀越にも、たった一人見捨てることなく、面会に来てくれたのが母親だった。処刑が決まった後の最後の面会にも来てくれた。逮捕から8年8か月後の1975年 年12月7日、堀越の死刑が執行された。堀越の最後の言葉は「どうか皆さん、ぼくの冥福を祈って成仏できるよう助けて下さい」だった。享年37歳