ドロシア・プエンテ

 

品の良いお婆さん見えたようである。ところが、その実体は連続殺人犯だった。彼女がそうなったのは不幸な生い立ちゆえである。ウィリアム・ヴィカリー医師は法廷で「彼女が大金を必要としたのは人から愛されたかったからなのです」と述べている。飲んだくれの両親にネグレクトされて育ったドロシアは関心を惹くために嘘をつくことを憶えた。ところが、それでも構ってくれず、嘘は次第に突飛なものになっていった。担任教師が「カウンセリングを受けさせるべきだ」と保護者に忠告したほどだ。

 

成人後も虚言癖は変わらなかった。「イラン国王に求婚されたこともございますの。でも、丁重にお断りしましたわ」これは7つの遺体が埋められていた屋敷の大家であるリカルド・オードリカが聞いた話だ。このほかにも「外科医だったのですが、今は引退しましたの。残ったのはメキシコとタホ湖にある別荘だけですわ」や、「実は私、ガンを患っておりますの。広島に原爆が投下された後、現地で従軍看護婦をしておりましてね。あの時に放射線を浴びたことが原因ですわ」など枚挙暇がない。 

 

彼女は『ひとから好かれたい、敬われたい、注目されたいという思いが異常なまでに過剰だったのだろう。おそらく、彼女は自らのことについて、真実を語っていることの方が少ないのではないだろうか。そして、驚くべきことに、彼女は年齢まで偽っていたのだ『いや、女性が年齢を偽るのはよくあることだろう。まあ、それは仕方がない』と思った人もいることだろう。しかし、彼女は多くの女性するように若く偽ったのではなく上にっていたのだ。自称70歳の彼女は、実はまだ59歳だったのである。

 

ドロシア・プエンテ、旧姓グレイは1929年1月9日、カリフォルニア州サンベルナンディノ郡レッドランズで生まれた。貧しい綿摘み人夫だった両親は前述の通りアル中で、ドロシアが4歳の時に父親が亡くなり、6歳の時に母親死亡している孤児となった彼女はいったん孤児院に収容された後、親類に引き取られた。17歳の時にフレッド・マクフォールと結婚したが、2年後に死別した。マクフォール死因は心臓発作だったそうだが、今となっては疑わしい。彼女が殺したのではなかったか?

 

それはともかく、生活に困ったドロシアは小切手の偽造を始めた。当然のことながら、直ぐに警察に逮捕されて懲役1年の実刑を受けた彼女が23歳の時にアクセル・ヨハンセンという男性と再婚するが、婚姻中も彼女は路上で客をとり、何度も逮捕されている。37歳の時にヨハンセンと離婚し、ロベルト・プエンテと再婚する。ここでようやドロシアくにも運が巡ってきたかに思われた。サクラメントの市街地にある3階建ての古い屋敷を購入すると、そこで看護施設の経営を始めたのである。

 

ドロシア髪をブロンドに染めて優雅に振るまい、 「アバズレだった頃の私は本当の私じゃなかったの!」とばかりに気品溢れる院長を演じ始めた。常勤の調理人を雇い、祝祭日ともなれば地域の人々を招待して晩餐会を催した。ところが、彼女の夫であるプエンテはひどい浮気性だった。腹を立てたドロシアは夫の鼻っつらにパンチを一撃みまった怒った即刻、離婚されたドロシアはパトロンを失ってしまった。しかし、体面だけは守らなければならない。今や彼女は「セレブ」なったのだから

 

かくして資金を捻出するために小切手を偽造して逮捕され、セレブ地位は瞬くうちに崩れ去ったのであった。1985年に仮出所したドロシアは、77歳のエヴァーソン・ギルマウスと結婚する。ギルマウスは女囚に手紙を書くことを好むという極めて変わった趣味があった。それでドロシアと結ばれたのだ。正に『飛んで火に入る夏の虫である。翌年の1月にギルマウスは腐乱死体となって発見された。もっとも、当時はギルマウスであるかは不明だった。判明したのはドロシア逮捕後のことである。

 

それまで彼は生きていることになっていた。ドロシアが欲しかったのは彼の貯金と年金だ。だから、生きていてもらわなければ困るのだ。これを元手にサクラメントのリカルド・オードリカから屋敷を借りたドロシアは再び看護施設を始めた。入居者の殆どは貧しいヒスパニック系の年寄りか浮浪者で、謂わばアメリカという国の最底辺に位置する人々である。そんな連中に慈愛の手を差し伸べるドロシアはたちまち地域のマザー・テレサとなった。近隣で彼女を悪く言う者はひとりもいなくなった

 

ところが、ドロシア以前看護院長を務めていた時とは状況が違っている。このたびは資金を支えてくれるパトロンがいないのだ。だから、ドロシアはいつもカネに困っていた。入居者ひとり当り月350ドルの家賃収入だけでは到底賄えなかった。それなのに体面を気にする彼女は何処へ行くにもタクシーを使い、チップを弾み、酒場に行けば気前よく皆に酒を振舞ったそうした彼女がカネに行き詰まることは明白だった。ドロシア新たな殺人に手を染めるのは、もはや時間の問題だった

 

1986年8月19日、ドロシアが経営する看護院の入居者であるベティ・パーマー(77)がその日を最後に行方不明になってしまった。ところが、その2月後、ドロシアはパーマーのIDカードをカリフォルニア州から受け取っている。名前はベティ・パーマーなっていたが、写真はドロシア・プエンテだ。このカードさえあれば、パーマーの年金をドロシアが受給できるのだ。同じ手口で合計7名がこの狡猾な年金詐欺師の犠牲者となった。いずれも身寄りのない年寄りか浮浪者ばかりだった。

 

ところが、バート・モントーヤにはニューオリンズに親類がいた。彼をドロシアに預けた民生委員はそのことを知っていた。それにも拘わらずドロシアは「彼はメキシコの親類に会いに出かけました」と弁明した。メキシコの親類なんているはずがない。彼はコスタリカ移民なのだ。通報を受けた警察は「庭で悪臭がする」との聞き込みを受けて花壇や菜園を掘り返したところ、7つの遺体が埋まっていた。死因はいずれも睡眠薬の大量摂取だったそのうちの最も新しいものがモントーヤだった。

 

ドロシア・プエンテの事件は近年、我が国で増えている「女性による理解できない事件」の原形に思え。ひとから好かれたい、敬われたい、注目されたい。そのために我が子を殺し、火を放ち、隣人の子を殺す。常人には理解できないが、彼女たちの中では方程式は成り立っているのだろう。ちなみに、ドロシア・プエンテは陪審員に中に人権派弁護士みたいな人がい、死刑は免れて終身刑に処された。完全黙秘を貫いているので、犯行の具体的な内容は不明のままである。