1996年4月18日午後8時頃、広島市内のタクシー運転手である日高広明(34)は薬研堀にある新天地公園で、とある少女に声をかけていた。この少女は呉市の定時制高校に通う1年の宮地里枝さん(16)だった。彼女は当時流行していた援助交際目的で客を探していた。彼女は、その界隈ではよく目撃されており、ちょっとした有名人であった。彼女との『商談』は2万円でまとまり、日高と里枝さんは広島駅付近のホテルへ入った。
ホテルで里枝さんは「行方不明の父親の借金返済のため、大阪から広島まで働きに来た。あと10万円返せば完済できる。今日は最後の返済日なので10万円を持って呉駅に行く」と涙ながらに話した。それを聞いた日高は同情し、『行為』もせずに自分のタクシーで呉駅まで送って行くことにした。呉市に向かう途中で、日高の心に『この娘は返済用の10万円と自分が渡した2万円、合わせて12万円持っているはず…』という邪念が生まれた。
消費者金融に350万円もの借金があった日高は「12万円あれば、今月の借金が返済できる。この娘は身寄りが大阪にしかいないのだから、殺して山に隠せばバレない。もし、遺体が発見されたとしても自分とは接点がないのだから、警察に疑われることもないだろう」と考えた。日高は人気のない道でエンストを装い車を停車させた。それから「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから足元のシートをめくってくれ」と、里枝さんに声を掛けた。
午後10時50分、里枝さんの首を日高はネクタイで絞めた。やがて彼女は動かなくなった。里枝さんの所持品を物色したところ、5万円しかなかった。日高は「騙された」と思ったが、その5万円を奪った。その後、身元隠すために服を脱がせて、約25km離れた広島市安佐南区内の用水路に遺体を投遺棄した。翌日午後4時30分頃、近隣住民が、里枝さんを発見する。しかし、何も身につけていないため手がかりは少なく、身元特定は難航した。
里枝さんを殺害してから4か月経った。里枝さんを殺害した時、日高は『人の命を支配する快感』を感じていた。捜査の手は日高には及んでいなかった。彼は安心し、根拠もなく自身の悪運の強さを信じた。そのうち「自分と接点のない売春婦なら犯行がバレない」と考えるようになった。気持ちに余裕が出てくると、次のターゲットを探すようになる。彼は8月12日、新天地公園で客待ちをしていたスナック勤務の古月理江さん(23)に狙いを定めた。
理江さんに3万円を支払い、ホテルで行為におよんだ。その後、彼女をタクシーで送る途中、最初の犯行と同じ手口でエンジントラブルを装い停車、 理江さんに足元のシートをめくるように頼んだ。日高は背後から理江さんに近づき、ネクタイで首を絞めた。理江さんは首を絞められながらも命乞いをしたが、日高は手を緩めなかった。殺害後は所持金5万2千円を奪い、午前2時20分頃、遺体を安佐北区白木町小越の関川沿い斜面に遺棄した。
この頃から、日高の心境に変化が起きていた。性行為と金銭が目的だった犯行が、『殺人』に快感を覚えるようになっていた。1996年9月7日午後11時頃、客待ちをしていた顔見知りの藤山万里子さん(45)に声をかけた。日高は「車の中でしよう」と提案し、彼女はこれを了承した。日高は3万円を支払い、ふたりは車に乗り込む。それから遺棄現場として考えていた加計町方面へ向かった。この時、日高は万里子さんと『行為』をする気はなかった。
午後11時50分頃、日高は暗い山道にタクシーを停車させた。そして言葉巧みに「後ろからしたいから」と言い、万里子さんはそれに従い後部座席で日高に背を向ける格好となった。日高はズボンのベルトを引き抜き、彼女の背後からゆっくり近寄る。そしてすばやくベルトを首に回した。万里子さんは激しく抵抗したが、男の力に敵うはずもなかった。午前0時10分、万里子さんの財布から現金8万2千円を奪い、遺体を乗せたタクシーを発進させた。
1時間ほどタクシーを走らせ、遺棄場所を物色した。そして殺害現場から約10kmほど離れた、滝山川左岸の法面斜面に万里子さんの遺体を遺棄した。発見を遅らせる工作として、近くの農家から盗んだ青いビニールシートで遺体を隠した。最初の犯行の遺体は、すぐ発見されたものの、それ以降はマスコミは続報も伝えていなかった。さらに、第2殺人も第3の殺人についても発覚すらしていない。この状況に、日高は自信をますます高めていった。
1996年9月13日午後10時頃、以前に何度か遊んだことのあるアイちゃん(ロマンス洋子さん)(32)に声をかけ、タクシーに誘い入れた。ふたりは車内で10分ほど雑談をしていたが、この後、日高は缶ビールを買うため車を離れた。日高がタクシー戻った時、どうした訳かアイちゃんはいなくなっていた。ところが2時間後、あるホテルの前で再びアイちゃんを見かけた。日高はもう一度彼女に声をかけ、4万円を提示して行為を求めるとアイちゃんは了承した。
日高は「今日は少し遠くでやろう」とタクシーを走らせた。今回の殺害場所は、交通量がほとんどない佐伯区のダム付近と決めていた。目的の場所近くのラブホテルに入り行為を済ませた。日付が変わった午前1時50分頃、ホテルを出たふたりは廿日市市に向かった。午前2時過ぎ、日高はいつもの手口で殺害しようと考え、トラブルを装い人気のない田舎道に車を停車した。それからアイちゃんに足元のシートをめくるように頼んだが、彼女は従わなかった。
得体のしれない怖さを感じたアイちゃんは「ひとりで帰る」と言い、車を飛び出した。日高は焦り追いかける。その時、アイちゃんが売春代金4万円を投げ返してきたため、日高は逆上して車で逃げ道を塞いだ。日高は用意していたナイフで彼女を脅し、後部座席に連れ込んだ。そして顔を何度も殴って失神させ、ネクタイで殺害。その後、所持金5万6千円を奪った。遺体は午前2時40分頃、広島市佐伯区湯来町の国道433号沿い草むらに遺棄した。
1996年9月14日午前7時頃、アイちゃん殺害から5時間ほど経過した時のことだった。犬を散歩中の老女が仰向けに倒れている女性の遺体を見つけた。発見された遺体には顔面の鬱血や首を絞められた跡が確認された。そのため、広島県警捜査一課は殺人・死体遺棄事件と断定、廿日市警察署に捜査本部を設置した。広島大学医学部で司法解剖した結果、死因は「首の圧迫による窒息死」、死亡推定時刻は「14日午前4時頃」とされた。
遺体は着衣の乱れが少なく、死亡推定時刻から発見時刻の間隔が短いため、捜査本部は「女性は広島市周辺で殺害され、車で現場へ運ばれた可能性が高い」「14日未明から早朝に遺棄された」と推測。犯人像は「地元の地理に詳しい人物」と推測、現場周辺での聞き込みなどに全力を挙げた。同日午後8時頃、アイちゃんの長女から「母と連絡が取れない」と連絡があった。警察は指紋照合行った結果、遺体の身元はアイちゃんと判明した。
また、身元の特定が難航していた宮地里枝さんのほうは、遺体発見から1週間後の1996年5月13日になって母親を名乗る女性から広島北署捜査本部に「娘がいなくなって、連絡がとれない」と電話で通報があった。その後の調査で、血液型(O型)・身に着けていた装飾品(ネックレス・ピアスなど)が里枝さんの特徴と酷似していたことが判明した。その他、指紋・髪、虫垂炎の手術痕・胸のX線写真などから、遺体の身元は里枝さんと断定された。
アイちゃんの身元が判明した直後の捜査で、「ふたりを遺体発見現場の付近で見かけた」という証言や、「ふたりが佐伯区内のホテルを利用した」「ふたりが日高のタクシーで帰った」ことなどが判明。遺体発見現場から日高宅は直線距離で5Kmであることや、日高には土地勘があること、事件発覚後に日高が行方をくらましたことなどから、警察はアイちゃん殺害を日高の犯行とみて、1996年9月18日に殺人、死体遺棄容疑で逮捕状を請求した。
一方、日高は15日までは勤務していたが、16日には捜査が間近に迫ったことを察知し、出身地である九州方面への逃亡を開始した。事件を知ったタクシー会社はその翌日に日高を解雇した。日高は九州各地を転々としたあと、20日にいったん帰宅しようとした。しかし警察が張り込みをしていたため断念し、盗んだ車で再び九州への逃亡を目論んだ。翌日の早朝4時30分頃、日高は山口県防府市の国道2号を走行中、交通検問に出くわした。
窮して慌てた日高は無謀にも、この交通検問を強行突破しようと試みたが、多くのパトカー追われて、ついに身柄を確保されてしまった。乗っていた車が盗難車であったことから、それが判明して日高は現行犯逮捕された。日高は逮捕された直後に精神疾患を抱える1歳年上の妻と離婚している。その後、アイちゃん殺害についての取り調べにおいて、日高は宮地里枝さんや、古月理江さん、藤山万里子さんの3人の殺害についても認める自供をしている。
初公判は1997年2月10日、広島地方裁判所にて開かれ、日高広明被告は罪状認否で起訴事実を全面的に認めた。冒頭陳述で検察側は「町で声をかけた女性を殺しても自分は疑われないと思い、ふたり目以降は殺すことに快感を覚えるようになった」という日高被告の心理に言及した。弁護側は「正常な人間なら、数万円のために殺人を4回も犯さない」と主張。そして、責任能力の有無を調べる精神鑑定を請求し、裁判長はこれを認めた。
1999年2月23日、1年3か月ぶりに日高被告の公判が開かれた。その公判のなかで日高の精神鑑定の結果が示され、「被告は多額の借金を抱えていたことや、妻の病気によるストレスがあって、男としての自信を喪失していた。そこで、本来の強い力を証明し、自信を取り戻すための殺人だった。通常とは異なる精神状態だった可能性はある」としている。そのうえで、「責任能力に影響をおよぼすような、病的なものとはみなされない」と結論付けている。
10月6日、検察側は「落ち度のない4人を次々に殺害した、自己中心的な犯罪で改善の見込みがない。犯罪史上まれにみる残虐な事件」として死刑を求刑2000年2月9日に判決公判が開かれ、裁判長は「稀にみる凶悪事案。計画性は明白で酌量の余地はない」と述べ、死刑判決を言い渡した。判決の言い渡し後、「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」と諭した。日高は控訴せず、そのまま死刑が確定した。
日高広明は1962年4月、3人兄弟の末っ子(三男)として宮崎県宮崎市で生まれた。実家は多くの山林を持つ、地元でも有数の資産家だった。小中学校時代はソフトボール部や野球部で活躍し、中学時代には野球部の主将を務めていた。高校は県内トップの進学校に進んでいる。日本史が得意で、高校では常に学年の上位15番以内に入る成績を維持し、高校時代まで日高は地元では「スポーツ万能の優等生」として名を知られていた。
両親は子供に甘く、特に日高は末っ子だったため、小遣いを欲しがるだけもらえるような家庭環境で育った。1981年3月に高校を卒業。教師か公務員になるのを夢に、筑波大学の推薦入試に臨むも不合格となった。そのため、滑り止めの福岡大学法学部に入学。このことで彼は大きな挫折感を味わい、友人たちとも音信不通になった。大学では「お前らとは違う」と同級生を見下しつつ、授業にほとんど出席せず飲酒・ギャンブルにのめり込んでいた。
大学の4年になり、同級生らが国家公務員や県職員として就職を決める一方で、日高自身は留年が確実となり、強い挫折感を味わった。そして、授業料滞納を理由に大学を中退した。大学中退後は実家に連れ戻され、宮崎市役所の臨時職員として働いたが、酒と女遊びの荒れた生活を続け、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された。その後も遊ぶ金欲しさにひったくりをくりや盗みを返し、1986年6月には強盗事件で懲役2年の実刑判決を受けた。
日高は出所後、宮崎を離れてそれ以降実家に帰ることはなかった。1989年4月には、広島市内に在住する叔父宅に身を寄せ、タクシー会社に運転手として就職した。日高は一からやり直す覚悟で仕事に臨み、この時期は真面目に働いていた。ところが、大企業のエリートたちを自分のタクシーに乗せる毎日のなかで、彼のコンプレックスは大きく膨らむばかりだった。そして、給料の大半を酒と女遊びに浪費し、それでも足りない分を消費者金融から借金した。
29歳の時に、叔父の紹介でひとつ年上の女性と結婚した。借金は約500万円にもなっていたが、家を買う時に住宅ローンを400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して合計500万円を作ることで借金を完済した。1993年4月には長女が誕生して1児の父親になった。家を持ち子供もできたことで、日高は自信を取り戻し始めたが、長女誕生から2日後に産褥期の妻が精神疾患を発症して入院してしまう。娘は妻の実家に預けられた。
その後、日高は再び遊興に明け暮れるようになり、1994年末には再び200万円になった借金を実家の兄に肩代わりさせた。その後もますます日高の生活は荒れていく一方で、借金をくり返し膨らんでいった。被害者を物色していた流川地区には事件の3、4年ほど前から毎晩のように訪れ、「タクシーの男」として知られるようになった。だが、1996年になってからは遊ぶ金が尽きたことから、自宅に帰るようになり、1996年4月18日、最初の事件を起した。