毒婦 高橋裕子

 

1987年、高橋裕子32)は家を新築した時の担当だったつ年下の野本雄司さん(28)と再婚した。家は1985年に離婚した最初の夫と建てたもので、野本さんはメンテナンスで何度か訪れているうちに裕子と親しくなった。当時、野本さんは既婚者だったが、人目を妊娠中の妻を捨ててまで裕子と一緒になった。その後、野本さんは一級建築士を取得して独立を果たし、福岡市南区に建築設計事務所「司建築工房」を開業した。

 

そして、夫婦は志免町の北部に事務所を兼ねた階建ての豪邸を建てて移り住むことになった。そのタイミングで裕子「司建築工房」社長に就任。1992年には、ふたりの間に女児が生まれ、その年後には長男も誕生した。幸せな家庭を築いた見えた裕子だったが、もともとの裕福な家庭でったことも影響し、派手な散財を続け、いつしかバブル景気が陰りだすと「司建築工房」の経営も傾き始め、自転車操業をくり返すようになった。

 

裕子は借金取りが来るのを恐れ1994月に子供を連れて福岡市中央区の高級マンションに移り住んだ。そして、月まで家政婦として雇っていた女性が経営する福岡市城南区のスナックに時給1000円で働かせてもらうようになった。初めて経験する水商売ではあったし38歳になっていた裕子だったが、彼女には向いていた。音大出身で歌が上手く、美人で客あたりのいい裕子は人気があり、すぐに彼女目当ての客がついた。

 

野本雄司さん

 

夫婦が経営する司建築工房は千万円の負債を抱え倒産寸前の状況であったが、生活レベルを落とすことのできない裕子は「あんたが死ねば保険金で借金を返せる」と野本さんを連日、自殺を促すように激しく責め立てるようになっていた。1994月上旬、取引先の倒産により入金されるはずの1600万円が焦げ付いたことが致命的となり、会社は破綻が決定的になった。.野本さんは車に排気ガスを引き込んで自殺を図った。

 

しかし、この自殺は未遂に終わったのだが、一命をとりとめた野本さんに対して、裕子は「何で死なんと 借金はどうやって返すの!」となおも責め続けた。そして、司建築工房が9月末には2度目の不渡りを出したことから野本さん再び自殺を図るが、この時も死にきれなかったこうして野本さんを精神的に追い詰めておきながら、典型的な悪女である裕子は長男の家庭教師として雇っていた九州大学院生と不倫関係になっていた。

 

野本さんの死亡時保険金を手に入れたい裕子は自分に惚れ込んでいる大学院生に協力を仰いだ。頼られた大学院生は惚れた相手のため『完全自殺マニュアル』を読み、野本さんを自殺に見せかけて殺害する策を練った。大学院生は『ベンジンを混ぜたウイスキーを飲ませて殺害する』方法を提案したが、臭いが強く飲ませるのは難しかった。次に伝えてきたのは「腹部を刃物で深く突き刺して動脈を傷つけ、すぐに刃物を抜く」というものだった。

 

19941022日、裕子はウイスキーと睡眠導入剤を野本さんに飲ませて眠らせた。それから、腹と腰に包丁を突き刺して殺害。その後、大学院生を呼び出し、後始末などを手伝わせた。野本さんは借用書が散乱する自宅階の和室で切腹したように見えた。刺し傷は背中まで貫通し、他殺の疑う声もあった、過去2回も自殺未遂をくり返していたことや、過去に書いていた)遺書もみつかったことから、『借金苦による自殺』と判断された。

 

しかし、余ほど無念だったのか、野本さんの母親宅の留守番電話には、「サ・サ・レ・タ……」という野本さんの最後の声が残されていたということが後に分かっている裕子は野本さんを殺害し、まんまと警察を欺くことにも成功した。こうして彼女は保険金千万円を得ることになった家族の思い出にも未練がなかった裕子は自宅もさっさと5千万円ほどで売却し、これまでの借金を返済しても彼女の手元には億円近くの大金が残ることになった

 

1994年6月頃から家政婦として雇っていた女性が経営するスナックで働き始めた裕子は方々でカネの無心をするようになっていた。そのなかには裕子に惚れた大学院生も含まれており、若い彼からも数十万円を借りていた。そんなことから、裕子は自身の女としての価値を自覚するようになった。そして、それを武器にするため、スナック勤め始めて3か月後には「中洲で働く」と言って店を辞めた。野本さん殺害したのは、その後まもなくのことである。

 

裕子は中洲ではクラブのホステスをしながら、自分の店を出す準備を進めていた。そして、40になった頃、スナック「フリージア」を開店した。裕子は手っ取り早く 自分の身体を使って商売した。裕子は客に「初恋の人にそっくり」などと言って気があるような振りをして、相手が乗ってくれば「私、こう見えて床上手なのよ」と誘いをかけていた。その甲斐あって当初フリージア年配の客が列をなす勢いだったが、そのやり方がいつまでも通用するはずはなかった。

 

やがて裕子は情夫である青木文雄と共謀して、肉体関係を持った客を相手に「家族にバラす」と言ってカネを脅し取るようになった。青木は1996頃に初めて「フリージア」に来店したのだが、その際、かつて早稲田大学生だった頃にキャンパスで見かけて憧れた女性が、目の前にいる裕子であることが判明した。その奇跡的な再会に舞い上がった青木は裕子と肉体関係を持ったが、青木自身も過去に同様の手口で裕子にカネを脅し取られていた。

 

裕子はスナック「フリージア」の常連客である歳年上の天野隆之さんとの再婚を考えていた。天野さんは十数年も単身赴任をしていて、当時は青森の有名旅館の総支配人をしていた。その頃、福岡に出張に来て「フリージア」を訪れた。天野さんは東京に妻子があったが、27年も連れ添った妻を捨ててまで1999月に裕子との結婚に踏み切った。その際、以前からの不倫相手と裕子が揉めたことで、天野さんは広島県福山市のホテルに左遷された。

 

結婚を機に「フリージア」を閉めた裕子だったが、降格された天野さんが慣れない環境や仕事のストレスで退職してしまう。仕方がないので天野さんに物件を契約させ、彼がマスターを努める「フリージア」を再開させた。だが、裕子がいくら色気を売ろうが、夫がいる店が流行るはずがなかった。派手な暮らしをやめられない裕子は再び保険金を手に入れることを企むよになった。彼女は天野さんを精神的に追い詰め、時には暴力を振るって自殺するよう追い込んだ。

 

結婚から年半も経たない20001112日午前時頃、自宅天野さんはウイスキーと種類の睡眠導入剤を飲んで浴槽に入った。裕子は意識がない夫の両肩を押さえ、溺死させた。天野さんは当時、睡眠導入剤を処方されていたので、警察は他殺を疑わなかった。天野さんには3800万円の保険がかけられていたが、持病の糖尿病を告知していなかったために保険会社が支払いを拒否し、手にしたのは郵便局の簡易保険2740万円だった。

 

その後、フリージアに身体で商売をする店』『関係を持つとカネを脅し取られるなどの噂が広まり、店は潰れたそれでもなお派手な生活を続ける裕子は生活に窮した。裕子は福岡地裁に対し、保険会社を相手に未払いの保険金千万円の支払いを求めて提訴するも棄却され。残された手は関係を持った客への恐喝で、脅す手口は「不倫関係を奥さんにバラす」といものから、「貴方の子供を堕ろして心身ともにボロボロになった」という嘘までついた。

 

こうしてかつての店の客から脅し取ったカネを裕子はホストクラブやパチンコで湯水のように使っていたことから、警察は疑いの目彼女に向けるようになった2003年の秋、福岡県警・捜査一課の捜査員が過去の変死事案を再調査していたところ、『ふたりの夫が連続して死亡し、保険金を受け取っていた裕子の存在』が浮上したのだ。2004年前半には中洲の歓楽街で保険金目当てで夫を殺したスナックママの噂を捜査員が聞いてまわってもいた。

 

そして200422日、こうした内偵の結果、当時48歳の裕子は複数の男性に対する恐喝容疑で逮捕された。しかしながら警察が裕子を逮捕した本当の目的は元夫ふたりを保険金目当てで殺害した殺人容疑であった。裕子取り調べにはポリグラフ(嘘発見器)が使用され、観念した裕子はふたり夫の死亡について、自分が関わっていたことを遂に供述するに至ったこうして、裕子は夫ふたりに対する殺人容疑で再逮捕され、起訴された。

 

そして20041213日、福岡地裁で裕子と元九州大学院生の初公判が開かれた。2件の恐喝、2件の殺人、死亡時保険金を騙し取った3件の詐欺、件の詐欺未遂で起訴された裕子被告は「全て認めます。死刑になっても構わない」と涙ながらに述べた。だが、か月後の第回公判では供述をひるがえし、「元大学院生から『任せてください』と言われた。自分から殺害を依頼していない」と、野本雄司さん殺害を元大学院生になすりつけようとした。

 

そんな裕子被告に、検察側は「女王蜂が働き蜂に命懸けの奉仕を求めるように、ふたり夫が自分のために死ぬのを当然と考えていた」と厳しく批判したうえで、無期懲役を求刑しているそして200719日、福岡地裁において求刑通り裕子被告無期懲役が言い渡された。野本雄司さんの殺害は殺人罪が認められたが、天野隆之さん殺害については、『自殺して保険金を裕子に与える意志』が本人にあった認められ嘱託殺人罪が適用された。

 

裁判長は「裕子被告は自身の責任を軽減し、恋愛感情を抱く元大学院生に責任を押し付ける姿勢が見える」と強く批判した。さらに、2度の自殺に失敗した野本さんを、最後には自ら殺害したことについて、「あまりにも身勝手かつ自己中心的である。酌量の余地はまったくない」と非難した。裕子側は控訴していたが、同年1218日、福岡高裁がこれを棄却。さらに201126日、最高裁が上告も棄却し、高橋裕子被告の無期懲役が確定した。

 

高橋裕子1955年、石炭の街として栄えていた福岡県福岡市近郊の町である糟屋郡志免町で生まれている。大正町商店街で「ダイマル靴店」を営んでいた両親は商売の才覚があり、そのうえ地主でもあったことから、裕福な家で裕子は何不自由ない少女時代を送った。裕子母親は炭鉱の街に似合わぬ垢抜けた女性だったといわれている。そして、その娘である裕子も白い肌に大きな目可愛い女の子として有名で、「白雪姫」と呼ばれて甘やかされた。

 

裕子は高級子ども服メーカーの服で着飾られ、小学年からはピアノを習うようになった。その後、中高一貫の名門ミッションスクール「福岡女学院」へ進学。高校卒業後は武蔵野音楽大学に進学。当初はピアノ専攻だったが、小学年からのスタートでは遅すぎるとの先生のアドバイスに従い、声楽学科に転科した。裕子は「パーティー好き」として音大仲間に知れていたが、参加するのは相手が慶応か早稲田の場合のみで、裕子はそういった場でかなりモテていた。

 

大学時代の裕子

 

大学年の時、裕子は早稲田大が主催したダンスパーティに参加した。清楚でひときわ目立っていた裕子は、歳年上の慶應商学部の男子学生に一目惚れされ、プロポーズを受ける断るが、年かけて熱心に説得された。そして1979年、両家の反対も押し切り結婚にこぎつけた。男子学生は福島県郡山市の資産家の長男で、結婚式には300人以上が出席。媒酌人は商工会議所の会頭が務めた。こうして夫の実家の裏のマンションで新婚生活を始めた。

 

1980月には長女も誕生したが、「ズーズー弁が移る」と祖父母に会わせるのを嫌がった。親戚付き合いを避け、理由をつけては何度も引っ越しをくり返した。裕子は何かと福岡に帰省するようになり、結婚から年後には夫に包丁を突きつけ「この結婚は失敗だった」と福岡に帰ってしまう。夫は裕子のあとを追い、年間の期限付きで裕子の実家で暮らすことにした。裕子は高級ブランドの服や家具を欲しがるため、夫の実家は50万円単位で何度も援助した。

 

1983月には長男が誕生するが、夫はストレスから生活が荒れていく。競艇やポーカーにのめり込んだり中洲を飲み歩くなどして、1984月には360万円の借金が発覚。この時は、裕子の父親が返済。だが、同年月には会社の金を着服したことが発覚し、今度は夫の父親が返済した。1985年には、裕子の父親から200万円を支援を受け、近くに家を購入したが、夫の度目の着服が明らかになり、会社は解雇された198510月に夫婦は離婚した。