中世、日本が海外の国から攻められた出来事といえば、誰でもまず思い浮かぶのが元寇ではないだろうか。鎌倉時代中期、当時、中国大陸を支配していたモンゴル帝国(元朝)とその属国である高麗が度にわたり、対馬を攻めてきた。従来、「神風」が吹いたので日本が勝ったのだといわれてきたが、近年では日本側の頑強な抵抗の様子も明らかになり、日本の勝因についても、様々な分析がなされるようになってきている。しかしながら、元寇のあとにも、外敵の侵略はあった。

 

1419年(応永26)620日、対馬の尾崎浦に10艘ほどの軍船が現われた。島民たちは当初、仲間が帰ってきたと勘違いして、酒や魚を用意するなどもてなしの準備を始めただが、次第に様子がおかしいことに気が付いた。最初の10艘に続いて何隻もの軍船が沖合に出現したからだ。対馬の海岸に姿をみせた船は李氏朝鮮の侵攻軍だった。総勢227隻、7285人ほどの大軍勢である危険を察知した島民は山に逃げ込んだ。対馬は瞬く間に戦場と化した

 

李氏朝鮮はなぜ対馬を攻めたのか。諸説あるが、当時の対馬は倭寇の一大拠点とみられており、その勢いを削ぐためであったのは間違いない。15世紀初頭、倭寇は室町幕府や朝鮮王朝による禁圧策、また朝鮮王朝による懐柔策により、沈静化していた。しかし、1418年(応永25)、それまで倭寇の禁圧に尽力した対馬守護宗貞茂がこの世を去った。跡を継いだその子の宗貞盛はまだ若く、李氏朝鮮前国王である太宗は再び倭寇の活動が盛んになることを恐れた。


事実、1419年(応永26)5月には約艘の倭船が朝鮮半島近海に現われ、朝鮮の船を焼くという事件が起きている(ちなみにこの50艘はもともと明を目指しており、やがて明軍と戦い全滅)。そうした事情があり、太宗は交通の要衝である対馬に攻め入ろうと考えたのだ。太宗は出兵の前に「対馬為島、隷於慶尚道之鶏林。本是我国之地」(対馬の島慶尚道の鶏林に属する。本これ我が国の地)と述べたという。しかし、対馬の人びとからすれば、まさに「言いがかり」であった。


対馬に上陸した李氏朝鮮軍は対馬守護である宗貞盛に対馬攻撃する旨したためた書を送ったが、返答はなかった。李氏朝鮮軍は日本側に降伏する意思のないことを悟ると島内の捜索を開始した。その過程で船を焼き払い、1939戸の家を焼き払い島民114人を殺害、田んぼの穀物を刈って略奪した。このとき、対馬を守る日本武士の数は600人程度であり、李氏朝鮮軍のわずか30分の過ぎなかった。どう考えても多勢に無勢であり、勝てるはずのない戦いであった。


しかし、李氏朝鮮軍は思わぬ苦戦を強いられる。29日、軍を構成して進攻していったが、そのうちの軍は宗資茂率いる対馬勢に阻まれた。対馬勢はまともに挑んでは勝てないと判断して、李氏朝鮮軍を内陸部に引き込んで急襲しようと考えたのだ。この作戦が見事に、はまった。日本武士の放つ矢は面白いように命中し、地の利をいかして散々に奇襲攻撃を行ない、李氏朝鮮軍に大打撃を与える。日本側の史料によれば李氏朝鮮軍は2500人もの損害を出したという。


これを受けて、李氏朝鮮軍は一時的に海上撤退した。こうして戦況は膠着状態に陥ると、宗貞盛は李氏朝鮮軍に対して、月に入ると暴風が吹くため、大軍が長期間留まることは(朝鮮軍にとっても)よくない」との旨をしたためた文書を送り、友好と撤退を呼びかけた。簡単に攻め落とせないと判断した李氏朝鮮軍もこれを容れることになった。結果、日に対馬から巨済島に撤退することになった。実に1万7000余人対600人の戦力差を考えれば、考えられない戦果であった。

 

現在のように情報伝達手段が発達していない室町時代にあって、この一連の事件は幕府に正確に伝わっていなかった。当時、足利義持が明の使いを追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では「明が襲撃してきた。大唐蜂起(元寇)の再来だ」などと誤解していた。さらに驚くべきは李氏朝鮮軍が侵攻する前の22日の時点で、「大唐南蛮高麗等が日本に攻め来たる」という情報が京都に広まっていたことだ。この情報の出所は「高麗」といわれていたという

 

『明襲撃』の情報を耳にした足利義持と朝廷は「三度目の元寇か」と恐れた。このとき、義持「神国ゆえ何事あるか」と口走ったと伝えられる。義持は早速に石清水八幡宮に足を運び、日本国の無事を祈った。この言い伝えによれば、風もないのに八幡宮の鳥居が倒れたという。ともあれ、最終的には李氏朝鮮とのさらなる戦いは行なわれなかった。朝鮮軍対馬侵攻を「大唐蜂起」の前兆と考える向きもあったが、義持が恐れたようなの規模の争いには発展しなかった。

 

李氏朝鮮内では戦果がなかったたことから、再征を主張する勢力もいたが、兵の士気がすでに落ち、船の装備が破損していたことから、結局は中止になった。朝鮮側の記録には、この戦いの後、対馬側が使者を送って朝鮮への帰属を願ったという記述もあるともいう。しかしながら、対馬側に朝鮮帰属の意志があったとは到底考えられない。むしろ応永の外寇は李氏朝鮮の太宗の「対馬の島たる、本これ我国の地」という言葉を名実ともに否定する歴史的事件となったのであった。