マーク・デイヴィッド・チャップマン
「歴史上最も偉大なアーティスト」との評価もあるザ・ビートルズ。その主要メンバーであったジョン・レノンは1980年12月8日22時50分頃、ニューヨークのセントラル・パーク西側の72番通りにある自宅であるダコタ・ハウスの前で射殺された。犯人であるマーク・デイヴィッド・チャップマンはパート前の草場の中でレノンの帰りを数時間も待ち続け、レノンが到着すると背後から呼びかけた直後に拳銃を5発撃ち、内2~3発が胸に命中した。
異変に気が付いたハウスの警備員がすぐに駆けつけ、チャップマンから拳銃を奪い取った。レノンを銃撃した後もチャップマンは現場に留まり辺りをうろついたり『ライ麦畑でつかまえて』を読んだりしている間に警官が到着してチャップマンを逮捕した。レノンの容態は急を要したことから、救急車の到着を待たず、駆けつけたパトカーの後部シートに乗せられ、近くのルーズヴェルト病院に搬送されたが、出血多量による死亡が23時頃、確認された。
逮捕後の裁判でチャップマンは第二級謀殺の疑いで告発された。弁護士は「被告は精神異常である」と申し立てると思われたが、有罪の申し立てを行なった。チャップマンは第二級謀殺の罪で有罪と認定され「禁錮20年ないし終身の無期刑」を言い渡された。ニューヨーク州の州法においては、第二級謀殺の罪は20年服役後に仮釈放が許可される場合がある無期刑が最高刑。ニューヨーク州に所在するウェンデ刑務所にて服役中だ。
チャップマンは、東京やソウル、香港、シンガポール、ロンドン、パリなどを回る、6週間の世界一周旅行旅行に行っており、その旅行会社の担当だったことで知り合った日系アメリカ人のグロリア・ヒロコ・アベという女性と1979年6月に結婚している。そして、結婚して1年半後にチャップマンがレノンを殺害したが、事件後も夫婦は離婚していない。ふたりは年に一度44時間、刑務所内のキッチン付きトレーラーで過ごすことが許されているという。
チャップマンはニューヨーク州の仮釈放委員会に2000年から、2020年までに仮釈放を12回申請したが、チャップマンの言動に反省や更生が見られないことや、レノンの遺族である妻子への犯行の恐れがあること、レノンの妻であるオノが「私達の安全が脅かされる」として仮釈放に反対していること、チャップマンが仮釈放されたらレノンのファンに殺される恐れがある等として却下されている。次の仮釈放申請予定は今年(2014年)である。
チャップマンは犯行当時、ジョン・レノンの狂信的ファンであると報じられ、世界的に、その報道が定着したが、さまざまな憶測も語られた。事件はケネディ大統領暗殺事件に似た陰謀的暗殺説、反戦運動など政治的影響力のあるレノンを排除するため米国政府の暗殺説などがある。しかし、チャップマン自身が「有名になりたくてレノンを殺した」と仮釈放申請の際に述べていて、現在はチャップマンの単独犯行であると結論付けられている。
マーク・チャップマンは1955年5月10日、米・テキサス州のフォートワースという街で生まれている。子供時代のチャップマンは粗暴で暴力を振るう父親に怯え、いつの頃からか、自分は寝室の壁の中に住む小人たちの王であるという妄想の中に住むようになった。だが、チャップマンのIQは121もあり、運動は苦手だったようだが、周囲からはごく普通の子供として見られていたという。チャップマンはこの頃からビートルズのファンだったと伝えられる。
そして、チャップマンはジョージア州ディケーターの高校に進学した14歳の頃から、マークチャップマンは両親に反抗するようになり、夜遊びをしてドラッグにも手を出すようになった。16歳の頃、チャップマンは長老派(キリスト教一派)の伝道師の説教会に行ったのを契機に人が変わったように、不良行為をやめた。この頃からチャップマンはYMCAのサマーキャンプの指導員を務め、子供たちからも人気を集め、優秀指導員賞を授与されたと言う。
ジョン・レノン
チャップマンはこの頃に、J・Dサリンジャーの世界的に有名な小説「ライ麦畑でつかまえて」にのめり込むようになり、同小説の主人公であるホールデン・コールフィールドのキャラクターに傾倒していった。それからほどなくして、チャップマンは婚約者とともに長老派系の大学に通ったが、学業がうまくいかず、婚約者以外の女性と浮気してしまった。その罪悪感に苛まれたチャップマンは自殺願望を芽生えさせ、大学も中退し、婚約者とも破局した。
こうしてチャップマンの人生は徐々に傾き始めていった。その後、チャップマンは故郷に戻り警備員として働き始めたが、自身の自殺願望は収まらず、1977年に自殺する目的でハワイへと旅立った。一度はハワイで過ごしたことで生きる希望を見出しがた。だが、故郷に戻ると、両親と喧嘩して再びハワイへ向かって自殺を試みた。ハワイの浜辺で排ガス自殺を図ったマークチャップマンだったが、それを地元の漁師に発見されて救われている。
グロリア・ヒロコ・アベ
チャップマンは、これを神に救われた出来事と感じて、病院でリハビリを受け、現地のガソリンスタンドで働きながら、自分が自殺未遂後に入院していた精神科病院でのボランティアとして老人の介護や雑用を手伝った。チャップマンはこの頃、日系米国人のグロリア・ヒロコ・アベと知り合って、ハワイで1979年に彼女にプロポーズした。彼らは6月に結婚し、病院の印刷係として勤め始めたが、再び精神病を発症しクビになり、夜警になった。
この頃から、チャップマンには再び強迫観念が現れ、過度な飲酒と病的な浪費が始まった。そうかと思えば、一転して節約することに夢中になったり、さまざまな衝動的で暴力的な異常行動が続き、想像上の小人も再び現れるようになった。レノンの伝記を読み、その金満生活に怒り狂い、レノン殺害計画を小人たちに話した。そして10月23日に夜警を辞め、27日に銃を買い、レノンの住むニューヨークに向けて30日にホノルルを発った。