1940年11月16日、ニューヨーク西64丁目に所在する電力会社であるコンソリディテッド・エジソン社の工場の窓枠に不審な木箱が置かれていた。包装紙には「コン・エジソンの悪党どもへ。これをお届けする」と書かれていた。中身はパイプ爆弾だった。真鍮製のパイプの中に火薬がぎっしり詰まっている。起爆装置は「砂糖と乾電池」で作られた稚拙なもので、事実、不発弾だった。だが、意図して不発にしたようにも思える。爆発してしまえば包装紙のメッセージは無意味だからだ。

 

テロで溢れる今日はとは違い、当時はさほど注目されなかった。地元紙さえにも載らなかった。欧州は戦禍の最中にあり、米国もいつ参戦するやも知れぬ時に、不発弾如きに構っていられなかったのだ。手掛かりがないままに10か月が過ぎた1941年9月某日、コン・エジソン本社からほど近い場所で同様の爆弾が発見された。やはり不発弾で、メッセージはなかった。コン・エジソン社に仕掛ける前に、何らかの理由により遺棄されたものと思われた。今回も報道されることはなかった。

 

やがて米国が第二次世界大戦に参戦すると、「この戦争の間は爆弾は作らない。私の愛国心がそうさせるのだ。しかし、いずれコン・エジソンに裁きを下す。奴らは卑劣な行為を償うことになる。F.P.」

 

彼が爆弾を仕掛ける『裁き』を再開したのは1950年3月19日になってからのことだった。仕掛けられていたのはグランド・セントラル・ターミナルだった。しかも今度は不発ではなかった。実際に爆発したのだ。爆発物を分析した警察の鑑識官は驚愕した。鑑識官から報告を受けた警察幹部は「奴は技術が驚くほど向上している…」と青ざめた。つまり、彼は休んでいる間に高度な技術を習得し、おまけに戦略を変えてきたのだ。公共施設をターゲットにした無差別攻撃に打って出たのである。

 

1957年までに少なくとも31件の爆弾が仕掛けられた。そのうち22件が爆発している。幸いにして死者は出ることはなかったが、合計15名もの市民が負傷した。そのなかでも最悪だったのは1956年12月2日、ブルックリンのパラマウント・シアターでの爆発事件であった。爆弾は客席の座席の下でそれは爆発して、6名が負傷した。そのうち3名は瀕死の重傷だった。市民は警察に対し、「一体何をやっているんだ!」 「危なくて映画にも行けないじゃないか!」と不満を募らせていた。

 

手掛かりすら掴んでいなかったニューヨーク市警は藁にもすがる思いで犯罪心理学者ジェイムス・ブラッセル博士に縋った。ブラッセル博士によれば「犯人は男性である。何故なら爆破犯は歴史的に見て、ほぼ例外なく男性だからだ」「偏執病者であることは間違いない。偏執病者の多くは30代前半まで本格的な症状が現れない。最初の犯行から16年経っていることから、現在は50歳前後と思われる。そして、多くの偏執病者と同様に独り暮らしか、年老いた縁者と暮らしている」という。

 

さらに、ブラッセル博士は「手書きの文字から、犯人は極めて几帳面な性格であることが分かる。表面上は品行方正な模範的な人間を装っており、おそらくダブルのスーツを好んで着るタイプである」「(英文の)文章の不自然さから移民の可能性が高い。おそらくスラヴ系である。それゆえにカトリック信者である可能性が高い」「手紙の中で彼は長年、重い病気に苦しんでいることを告白しているが、まだ生きていることから、結核か心臓病を患っている者と思われる」とのプロファイルを示した。

 

翌年の1957年1月21日に、容疑者として逮捕されたジョージ・メテスキーは、ブラッセル博士によるプロファイルに驚くほど合致した人物であった。彼はポーランドから移民であり、カトリック信者だった。彼は53歳の独り者で、年老いたふたりの姉と暮らしていた。特にダブルのスーツを好む彼は、ボタンを残らずかけるほど几帳面だった。そして、結核を患っていたのである。しかしながら、逮捕の切っ掛けとなったのはブラッセル博士のプロファイルではなく、メテスキー自身のうっかりミスであった。

 

メテスキーはジャーナル・アメリカン紙に宛てた手紙のなかで「私はコン・エジソンの工場での仕事で負傷した。結果、私は宣告された。完全に、そして永久に不具になった」と告白している。続く手紙の中で、彼は事故の日を「1931年9月5日」と特定して告白している。かくしてジョージ・メテスキーが犯人として浮上した。メテスキーはコン・エジソンに吸収合併された会社の従業員であった。だから、コン・エジソンの従業員ばかりを洗っていたニューヨーク市警は彼に辿り着けなかったのだ。

 

ニューヨーク市警は直ちにメテスキーは逮捕した。捜査官に署名の「F.P」の意味を訊かれて、「フェア・プレイの頭文字だよ」と誇らしげに答えた。彼の瞳には、狂気が宿っていた。ボイラーの事故で負傷したメテスキーは1931年9月5日、そのために結核を患ったと主張したが、コン・エジソンは取り合わなかった。このことが偏執病を促して「爆弾狂」を生み出した。彼は癲狂院送りとなり、1973年12月13日に釈放。その後、20年も生き存えて、1994年3月23日に死亡。90歳だった。