谷脇キヌ子さん
１９７２年６月２６日、東京都港区新橋にある第一ホテルにて、熊本県八代市在住する女性歯科医師の谷脇キヌ子さん（３７）が何者かに殺害される事件が発生した。警察は顔見知りによる犯行と見て、交友関係に絞って複数の容疑者をリストアップした。しかし、次第に世間の関心を集めていったのは彼女の裏の顔であった。不倫や派手な夜遊びといった情事が明らかになって行き、報道に注目が集まったものの、結局のところ犯人逮捕には繋がらなかった。
谷脇さんの遺体が発見されたのは６月２６日の未明のことだった。谷脇さんと共に第一ホテルに宿泊していた連れの男性歯科医師ＡさんとＢさんのふたりが彼女の部屋を訪ね倒れている谷脇さんを発見した。ふたりは驚いて警察に緊急通報した。通報を受けた警察が現場に駆け付けた時には既に谷脇さんは息絶えていた。谷脇さんと男性歯科医師ら三人は事件前日の２５日に開催されていた日本歯科医師会の講習会に参加するため熊本県から上京していた。
遺体の発見当時、谷脇さんは全裸の状態だった。警察の捜査で彼女のバッグから現金が盗まれていたことが分かった。また警察による鑑定で、谷脇さんの死因は手か幅の広い帯のようなもので首を絞められたことによる窒息死と判明。彼女の全身に皮下出血があり、必死に抵抗したと見られた。また彼女は死亡後に姦淫されていたことも分かった。さらに谷脇さんの胃の内容物から、亡くなったのは６月２５日の午後７時３０分～午後８時頃であることが判明した。
警察は谷脇さんと接触があった人物に的を絞り、捜査を行った。第一発見者であり、谷脇さんに同行していたＡさんＢさんが最初に疑われた。事件前日の午後７時頃から谷脇さんと近くにある焼き鳥屋で夕食を共にしていたが、その後谷脇さんは「気持ち悪くなった」と言って途中でホテルに帰った。結局、ふたりの歯科医師のアリバイを証明する第三者が見つからなかったが、谷脇さん体内から検出された犯人の体液の血液型と一致せず、容疑は晴れた。
次に疑われたのは、谷脇さんと不倫関係にあった東京で歯科医師Ｃさんだった。Ｃさんは谷脇さんと大学が同じで、２年先輩に当たる。東京に上京した６月２４日夕方から２５日、彼らは六本木で朝まで密会していたことが分かっている。その時、谷脇さんは同行した歯科医師のＡさんとＢさんには「自分の親戚の家に行く」と嘘をついたそうだ。しかし、遺体が発見された部屋から見つかった犯人の指紋と血液型のどれにも一致せず、Ｃさんも容疑者から外れた。
そして、ダンスが趣味だった谷脇さんは上京した折には有楽町のダンス教室に通っていて、今回の上京でもダンス教室のチケットを用意していた分かっている。また谷脇さんが新橋のダンスホールを遊び歩いていたことが判明している。ダンスホールで谷脇さんとダンスを踊っていたＤさんも容疑者として捜査線上に浮上したが、彼にもアリバイがあったため、容疑は晴れた。その後、警察による懸命な捜査が行われたが、犯人に繋がる手がかりを見つけることは出来なかった。
そして、事件から５年後の１９７７年に「東京の歯科大学の元教授が重要参考人として浮上した」と新聞が報じた。しかし、これはすぐに密告者による虚偽の通報だったことが判明した。「元教授が犯人である」と密告した女性は、この元教授から結婚詐欺まがいの被害を受けていたことから、密告すれば元教授の居場所がわかるのではないかという憶測に基づいた行為だったようだ。谷脇さんは変質者に襲われたのか、それとも知人か、行きずりの相手とのトラブルだろうか。
事件当時、谷脇さんは「歯科医院を開設するなど高い社会的地位を得ていたが、別の顔を持っている」と報じられた。彼女は既婚者であり、夫と知り合った当時、彼はトラック運転手だった。ふたりはダンスホールで知り合い、谷脇さんは両親に結婚を反対されたが、事件の９年前である１９６３年に結婚した。その後、夫は運転手を辞めて歯科技工士見習いとして谷脇さんの仕事を手伝うようになり、夫婦は事件の前年である１９７１年、八代市に歯科医院を開いた。
谷脇さんは派手なタイプとして有名だった。東京を訪れた際には派手な服装に身を包み、ひとりでダンスホールなどを遊び歩いていたという。また歯科医師会の講習会場では紅一点で、際立ったファッションで注目を集めており、金張りの靴を履いたりしていて、仲間からは「ボディガードつきの女王様」と呼ばれることもあったようだ。また、彼女が上京する際のスーツケースの中には、クジャクの羽の色の夜会服や銀色のダンスシューズ、化粧道具などが詰め込まれていたという。
谷脇さんが上京した目的は歯科医師の講習会に参加ということになっている。だが、「別の目的があったのではないか？」と見る関係者もいる。講習会は全部で１０回あり、講習会の参加費は４万円で１０回出れば４０万円だ。航空券代や滞在費を考えると、１００万円近い出費と推計される。歯科医院を開業していた谷脇さんがカネには困ることはなかっただろうが、「講習会に参加したのは上京して夜の街で遊び、不倫相手との密会が目的だった」という見かたもある。