澤地(橋本)和夫
警視庁に勤める橋本和夫は機動隊員などを経て警部に昇任していた。しかし1980年1月、自分の店を持とうと考え40歳過ぎで退職。そして3か月後、新宿駅西口の一等地に、居酒屋「橋長」を開業。店は60席で宴会場もある中規模店で素人の彼には無謀な挑戦だった。開業資金は保証協会から700万、国民金融公庫から2300万、サラ金から500万、信用金庫から500万を借り、総額4000万円だった。この額は橋本の身の丈を超える額だった。
「警察官が安心して飲める店」を目指し、開店当初は物珍しさや、ご祝儀的な来店も多かったことから店は大いに繁盛した。そのせいで橋本は、すっかり気が緩んでしまった。気が大きくなり、元同僚には料金を格安にしたり、閉店後に従業員を引き連れて飲みに繰り出すなど、堅実な商売を営んでいるとはいえなかった。そして、それに乗じて自身の暮らしも贅沢なものになっていった。 しかしそれは、まだ金融機関への返済が始まっていなかったからこそできることだった。
開店から半年ほど経って返済が始まると、途端にやり繰りが苦しくなった。そのうち赤字が積りはじめると、高利子の消費者金融にも手を出すようになる。元同僚の警察官にも金を借りたり、借金の保証人になってもらったりもした。そんな時、彼の店舗の入ったビルが倒産し、保証金2500万円の権利を失ってしまった。暴力団関係者にその取り立てを依頼したが、失敗して金策に走る日々が続いた末、遂に閉店に追い込まれてしまった。 開店から3年後のことだった。
この時期の橋本の借金は、1億5000万円にも膨れ上がっていた。そのうち5000万円は元同僚警察官らから借りたものだった。橋本は姓を変えることで借金返済を有利にするため、この頃に「橋本和夫」から「澤地和夫」と改名している。澤地和夫に金銭的協力をした警察官は、20人を超えていた。その中には自宅を差し押さえられたり、生活に支障をきたすものまで出た。保証人となった警察官には、ノンバンクから所轄署などに督促の電報が届くようになっていた。
澤地は多額の借金を一気に返済しようと、ブローカーや町の金融屋などの如何にも怪しげな連中と関係を持つようになり、反対にどんどん深みにはまっていった。暴力団関係者に誘われ、月50万円の報酬で裏ビデオを扱う会社の社長に就いたこともあった。これは当然まともな商売ではなく、「取り込み詐欺」が目的のペーパーカンパニーだった。取り込み詐欺とは、仕入れた商品を売りさばいた後、仕入れ代金を払わず、故意に会社を倒産させて、支払いを免れるのだ。
ある時、澤地は暴力団関係者に手形の現金化を頼まれた。この件で澤地は手形の現金化に成功した。ところが、澤地は依頼主である暴力団関係者に無断で、100万円を自身の借金返済に当ててしまった。これに怒った暴力団関係者に彼は小指を詰めさせられた。その後も再起をかけ、金融会社社長に借りた100万円で千葉県津田沼市で調査会社を立ち上げたが、仲介者に事務所の家賃を持ち逃げされた。ここまで運が悪いと、這い上がることは不可能だった。
朴竜珠
そのような折、澤地は在日韓国人の朴竜珠(48)という男から、儲け話を持ち掛けられた。朴は違法ポーカーゲーム屋を開くに当たり、警察のガサ入れ情報を欲しがっていた。朴に「半年もやれば1~2億円は稼げる」といわれて、澤地はその気になったが、彼は警察関係者との人的パイプが既に切れており、情報を取れる自信はなかった。結局、この話は進まなかったので、澤地は「人を殺してでもカネが欲しい」と朴に相談した。すると、朴はある男を紹介するといった。
猪熊武夫
その男は不動産業者の猪熊武夫(35)で、7億円の負債を抱えて倒産し、「カネになるなら何でもやる」という。こうして澤地、朴、猪熊の3人は、ある宝石商からカネを奪う計画を立てる。3人のターゲットは宝石商の太田三起男さん(36)だった。彼は安い宝石を高く売りつけることで儲けていた。澤地は商談のため、太田さんを池袋のサンシャイン・プリンスホテルに呼び出した。太田さんは派手な出で立ちで、見せ金1000万円が入っているアタッシュケースを持って現れた。
太田さんは、アタッシュケースからサファイアの指輪2個を取り出して見せた。彼は「1個1000万円の価値がある」と言っていたが、澤地はせいぜい数百万円くらいだろうと思った。澤地はそれには触れず、「厚木市に住んでいる大金持ちに話せば、指輪2個で6000万円で買うだろう」と持ちかけ、太田さんはこの儲け話に乗った。ところが、そんな大金持ちなど存在していなかった。これは太田さんを嵌めるためのシナリオであって、猪熊がその大金持ちの役をやることになっていた。
太田三起男さん
1984年10月11日、澤地と朴は太田さんを車に乗せて、猪熊が所有していた山中湖の別荘へ向かった。『厚木の大金持ち』役を務める猪熊は途中から合流してきた。犯行現場となる目的の別荘に着くと太田さんは金持ちのふりをした猪熊を相手に商談を始めた。偽りの交渉はしばらく続いていたが、そのうち「ここらで猿芝居はもう終わりだ」と澤地が言い放った。太田さんは初めのうち、その状況を呑み込めずにいたが、すぐに自分の身に危機が迫っていることを察知した。
立ち上がって逃げようとする太田さんを澤地が押さえつけ、太田さんも反撃した。そのまま乱闘になったが、訓練を受けてきた元警官に勝てるはずもなかった。太田さんは倒れ込んだところを澤地ら3人に殺害されてしまった。3人は太田さんの遺体を別荘の床下に埋め、現金と宝飾類を奪った。こうして彼らは現金約720万円と株券など計約5400万円相当を奪うことに成功した。居酒屋を閉店してたった1年ほどで、澤地は強盗殺人という大罪を犯すまで身を落としていた。
第2の犯行は澤地と猪熊ふたりで行うことになった。朴は太田さんを殺害した最初の犯行の後、韓国に逃亡していた。次のターゲットは金融業者の滝野光代さん(61)だった。澤地は彼女から1000万円を借りていて、その中には澤地の警察官である息子名義で借りた分もあった。しかし、返済が滞るようになると滝野さんは息子が勤務していた神田署まで取り立てに行くようになったという。澤地はこれを息子から聞いて腹を立て、滝野さんを次のターゲットにしたのだった。
滝野光代さん
猪熊は「千葉県我孫子市の土地所有者」に扮し、土地を担保に滝野さんから3000万円の融資を受ける話を取り付けた。10月25日午後1時頃、澤地は埼玉県上尾市のマンションへ滝野さんを迎えに行った。彼女が助手席に乗り込むと車を走らせた。前回同様、土地所有者役の猪熊は途中で合流し、我孫子市へ向かった。1時間ほど走ると、滝野さんがウトウトし始めた。猪熊は後部座席からロープで彼女の首を絞めた。澤地も手で滝野さんを押さえて協力した。
滝野さんが動かなくなると、車のトランクに入れて山中湖の別荘へ向かった。澤地らが車を走らせていると、かすかにうめき声が聞こえた。慌ててトランクを開けると、滝野さんが目を開き弱々しい声で「何するの?」と言った。殺したと思っていた滝野さんは生きており、澤地は焦った。再び首を絞めて今度は確実に殺害。ふたりは現金2000万円と貴金属計約2800万円相当を奪い、遺体を前回と同じ場所に埋めた。その後、澤地は奪った預金通帳から106万円を引き出した。
最初の被害者の太田さんには内妻がいた。彼女は太田さんの失踪後、「澤地と会うと言って出かけたきり、帰ってこない」と捜索願を提出していた。警察が捜査を始めると、太田さんの赤い車は西武デパート近くの駐車場に放置されているのが発見された。駐車記録を調べると、澤地と会った日から車はずっと止められたままだった。さらに調べを進めると、澤地が「暴力団員に宝石を売ろうとしている」ことが判明。そのため11月23日、警察は澤地を任意同行で事情聴取した。
当初、澤地は徹底して黙秘を貫き、罪を逃れようと考えていた。ところが、取調官の巧みな話術に嵌まり、澤地は犯行を自供してしまった。澤地は逮捕され、彼の供述により朴も逮捕された。澤地の供述から数日後、警察は山中湖の別荘で現場検証を行った。ところが、不思議なことに床下をいくら掘り起こしても、あるはずの被害者ふたりの遺体は出てこなかった。ただし血痕や毛髪、腐敗臭など残っていたことから、ここに誰かの遺体が埋まっていたことは疑う余地はなかった。
一方、猪熊は24日に澤地が逮捕されたことを知ると、知人を連れて山中湖の別荘へ向かった。そして床下を掘り返し、ふたりの遺体をそれぞれ布団袋に入れて麻縄で縛り、約50キロ離れた秦野市の山林に埋めていたのだ。澤地がくり返し言っていた「死体さえ見つからなければ有罪にならない」という言葉を信じたうえでの行動だった。しかし猪熊は10日後、友人の家に隠れているところを逮捕される。そして猪熊の供述に基づき、秦野市の山林からふたりの遺体を収容した。
1987年10月30日、東京地裁は澤地和夫、猪熊武夫両被告に死刑、朴竜珠被告に無期懲役の判決を言い渡した。3人は量刑を不服とし、それぞれ控訴した。猪熊被告の弁護人は「ふたつの事件は澤地被告らが準備・計画したもので、猪熊被告は追随したにすぎない。死刑の量刑は甚だしく不当」と主張していた。1989年3月31日、東京高裁は控訴を棄却、一審の死刑判決を支持した。この判決を受けて澤地、猪熊両被告はともに最高裁に上告した。
しかし1993年7月7日、澤地は上告を取り下げ、死刑が確定した。澤地が上告を取り下げたのは「最高裁まで争うより、途中で取り下げた方が死刑の執行が遅い」という憶測に基づいている。しかし、実際にはそのような事実もデータもない。1995年7月3日、最高裁は猪熊被告の上告を棄却、死刑が確定した。朴被告については、控訴・上告とも棄却され、無期懲役が確定している。一方、自ら死刑を選んだ澤地だったが、2000年3月28日に恩赦出願している。
この恩赦出願10月16日に却下され、その日のうちに「犯罪事実のうち有印私文書偽造・同行使・詐欺(第2事件で106万円を引き出した件)については友人が行ったもの」として無罪を主張。「死刑の情状についても、誤認がある」として再審請求を提出。だが、東京地裁は2003年3月、「証拠に新規性や明白性がない」として再審請求を棄却。その後の即時抗告も東京高裁は2007年1月22日に棄却した。そのため澤地被告は最高裁に特別抗告を申し立てた。
そんな中、澤地は2007年10月に胃ガンであることが判明、手術でガンを切除できなかったなかった。その後は抗ガン剤治療などを拒み、2008年12月16日午前1時47分、多臓器不全のため東京拘置所で死亡した。享年69歳だった。こうして死刑を執行されることなく病死した澤地であったが、彼はこの事件でふたりを殺害した。だが、遺体を埋めるための穴は3人分あった。これは共犯の猪熊を殺して埋めるためと供述している。澤地は死刑を執行されるべき人間だった。
橋本和夫は1939年4月生まれた。1958年9月に高校を卒業した後、警視庁に巡査として採用された。警察学校卒業後に、大森署巡査部長として配属された。その後、機動隊に転属されている。60年代の安保闘争では、デモ警備を担当している。その頃は橋本巡査部長を縮めた愛称である『橋長(ハシチョウ)』と呼ばれ、部下や同僚から厚い信頼を得ていた。元同僚らの証言によると、現役時代の澤地(橋本)は周囲から尊敬される理想の警察官像だったという。
1980年1月、東村山警察署警備係長警部補で退職届を出し、その際、階級が上がり「警部」となった。そして、新宿駅西口の一等地に居酒屋「橋長」を開業。40代で退官し事業を始め、華麗なる転身と周囲から見られていた。だが、実情は経営は火の車だった。負債が1億5000万円にまで膨れ上がり、店が倒産すると、自己破産などの正当な手続きを取ることなく、転落人生を歩んでいった。この頃、取り立てから逃れるため改姓して「澤地和夫」と名乗るようになった。