引寺利明

 

201022日午前35分頃、引寺利明42)は、広島市南区仁保沖町の「マツダ本社宇品工場」東正門前にファミリアワゴンに乗ってやってきた。この工場には月上旬に週間だけ期間工として勤務したが、辞めてすでにか月が経っていた。引寺はその短い雇用期間に「同僚の従業員から集団ストーカー被害に遭った」という妄想が出ていて、自分ではそれが現実のことだと固く信じ込んでいた。そして、この日はその復讐のために来たのだ。

 

工場の始業は午前15分。この時間はちょうど、夜勤と日勤の従業員が入れ替わる時間帯で、人の流れが多かった。引寺は東正門を70kmのスピードで突っ込み、従業員ふたり撥ねた。その後、警備員の制止を振り切って敷地内に侵入し、次々と人を撥ねた。さらに敷地内の東洋大橋を渡り、800m離れた本社工場まで進んで、5人を撥ねた。工場内を約10分間、時速40~70暴走し、午前45分頃、南区大州の北門から逃走した。

 

北門から逃走して40分後、北東に46kmほど離れた工場を一望できる府中町畑賀峠で、引寺は「わしがやった」と110番通報した。駆けつけた警察官が殺人未遂容疑で、午前23分に現行犯逮捕した。引寺は12人に危害を加えたが、そのうちマツダ正社員の浜田博志さん(39)が死亡11人が重軽傷を負った。引寺は事件後、知人男性に電話をかけて「わしはとうとう秋葉原通り魔事件を超えたよ」とうと一方的に電話を切ったという

 

引寺は逮捕後、「マツダ工場で同僚の従業員から集団ストーカー行為をされた。マツダが嫌がらせを止めなかったので、マツダに復讐しようとした」と供述している。しかし、警察の捜査では嫌がらせの事実は確認できず、被害妄想による思い込みと判断された。犯行現場にはブレーキ痕がほとんど残されておらず、犯行に使われたファミリアワゴンはフロントガラスが大きく破損し、ボンネットも変形していた。また、車内からは刃渡り約18cmの包丁も発見されている。

 

引寺は23日、殺人未遂と銃刀法違反の疑いで広島地方検察庁に送致された。この事件の起訴は201010月29日だったが、一審の初公判が201226日と、裁判の開始が大幅に遅れている。これは公判前整理手続きで、弁護団は心神喪失ゆえの無罪を主張する方針だった。しかし、引寺本人は死刑覚悟で犯行に臨んでおり、心神喪失については完全否定した上で、『無罪』方針については激しく反発し調整が長引いたためだった。

 

2012日、広島地方裁判所は求刑通り無期懲役の判決を下した。裁判長は争点だった責任能力の有無について「事件当時、妄想性障害の影響はあったが、犯行には悲観的、攻撃的な性格が強く関連しており、完全責任能力はあった」と判断を示した。「計画的で非情な極めて危険な犯行。死刑の選択も検討されるべき事案」と述べた。引寺被告は主張していた「マツダ従業員による嫌がらせ」が妄想と判断されたことを不服として控訴。

 

201311日、広島高等裁判所は引寺被告側の控訴を棄却、さらに24日、最高裁判所が上告を棄却して、一審・二審の無期懲役が確定した。引寺利明は無期懲役が確定したあと、岡山刑務所で服役している。彼は精神鑑定で妄想性障害と認定されたにもかかわらず、服役中に精神科の治療を一切受けていない。そのため裁判後も「集団ストーカーの被害に遭った」という主張を変えておらず、犯行は「正当な復讐」という考えのままでいる。

 

引寺は取り調べ段階や公判中ふざけているような言動や常識外な発言が多くみられた。引寺被告は精神鑑定のため、夏場に京都拘置所に移された際には「こんな暑いところに入れてどういうつもりだ!広島に返せ!」と怒鳴っていたという。また、裁判員に上から目線で「裁判官になろうとしなくていい。素人目線で質問して」と言い放ち、被告人質問で「うーん、うまく答えが見つからないんでパスさせて下さい(笑)初めてのパスですよ(笑)」などと話している。

 

さらに、公判中に「マツダ全体が憎かった。2030人殺せたとしても満足できたかわからない」「仮釈放されれば、またマツダに突っ込む。今度は必ず成果を残す」などとマツダへの憎悪を露わにしている。そして極めつけは、201010月末、引寺が死亡した浜田博志さんの妻にわしが旦那を消したことで、あんたもすっきりしとるじゃろ」「保険金も手に入って感謝してほしい。100万円を差し入れてくれ」と書いた手紙を送りつけて、金銭を要求したことまであった

 

引寺利明は、広島市内の創価学会信者の家庭に生まれた。家族は両親と妹。父親はマツダに勤務しており、夜勤が多かった。小学校高学年の頃に実母が亡くなり、数年後、父親は看護師の女性と再婚した。引寺はこの継母とは折り合いが悪く、よく言い争いする声が近所に響いていたという。引寺広島市内の高校を卒業後、広島県府中町にあるマツダの協力部品メーカーに入社。自動車座席の試作品を作る部署に約年半勤め、1992年に退職した。

 

秋葉原通り魔事件の加藤智大

 

引寺は事件発生の約時間前まで、知人男性と会っていた。引寺は「職場にいる間に、家具が移動させられている」と相談を持ちかけ、「マツダの従業員のやつらの仕業に違いない」と話していた。「わしには秋葉原の犯人(加藤智大)の気持ちがよく分かる。わしもマツダに突っ込んでやろうかと思う」と言い放った。男性が諭すと、納得した様子だったが、男性は引寺が加藤智大を「あいつすごいな」「あんなことよくやったよな」と賛辞する言葉に、違和感を覚えたという。