水内貴士

 

2013月、大阪府警巡査長・水内貴士は、2011に発生した東日本大震災の被災地支援で宮城県警に出向していた。そして水内は同月28仙台市内で開かれた「街コン」に参加し、仙台市の東北福祉大学に通っていた白田光さんと出会う。水内は女性に対して貪欲なタイプで、当初、白田さんはそんな水内を苦手に感じた。しかし何度か会ううちに「意外と悪い人ではない」と、最初の印象とのギャップ効果もあって次第に好感を持ち始める。

 

そもそも水内は身長183cm体重89kgの剣道で鍛えた身体に、精悍な顔立ち。いわゆるイケメンといっていい彼がモテないわけがなかった。こうして交際を始めたふたりだったが、白田さんが恋人として大事にされたのは最初の半年ほどだった。それもそのはず、水内にはすでに大阪に婚約者がいたのだ。水内にとって白田さんは単なる遊び相手悪くいえば「性欲のはけ口」だった。そんな水内とは裏腹に、婚約のことなど知らない白田さんは本気になっていった。

 

いつの間にかデートの回数も減り、直前にキャンセルされるようになっても、白田さんは水内を一途に思い続けていた。山形の実家にも、「警察官の彼氏ができたと、その存在を報告していた。白田さんは祖母と母親をがんで失った悲しい経験から少しでも、がん患者とその家族の力になりたい」という思いで、社会福祉士を目指していた。冷たい態度の水内のことを思い煩うと勉強に集中するのも大変であったが、それでも猛勉強の末に資格を取得することができた

 

白田光さん

 

2014年春、大阪市東住吉区のがん治療の拠点病院にソーシャルワーカーとして就職が決まり、大阪に移住した。この時、白田さんは「夢と彼氏を追いかけて、大阪に行く」と友人に話している。一方水内も宮城県出向を終え、大阪に戻り、阿倍野署に配属された。ふたりはいつでも会える距離になったが、水内の態度は相変わらずで会うことは余りなかった。水内は寝屋川市に住んでいたが、「両親と同居してるから」という理由で白田さん住所も教えなかった。

 

そんな月のある日、水内は先輩と飲んでいて終電を逃し、帰るのが面倒になって白田さんのことを思い出す。そんな気まぐれでマンションを訪れた水内を、白田さんは喜んで迎え入れた。だが、こうした訪問が常態化することはなかった。なぜなら水内は月に婚約者と結婚することが決まっていたのだ。そんなことなど知る由もない白田さんだったが、水内が自分に気がないことは分かっていた。その年の10月、彼女は水内のことを諦めようと考え、自ら別れを切り出した。

 

水内にとっては、これ以上きれいな別れ方はないはずだが、彼はなぜか「俺のこと好きやろ。別れられないやろ」と言った好きな相手にう言われてしまっては、どうしようもなかった。白田さんは、やっとの思いで決めた別れを撤回した。白田さんは別れ話を計回切り出しているが、その度に水内は「別れない」と言って関係を引き延ばしていた。その後、水内は居酒屋で後輩に白田さんを会わせている。白田さんにとっては、それは嬉しいことだったようで、とても喜んだ。

 

フェイスブックに水内とその妻がアップされていた

 

年明けの201512日、白田さんはすべてを知ってしまう。水内に会わせてもらった後輩のフェイスブックを見たのがきっかけだった。その後輩とつながる人たちを辿っていくと、ある人が投稿した写真に水内とその妻が写っていた。なぜ、それが水内の妻であることが分かったかといえば、それは水内の「結婚式の写真」だったからである。水内は幹事に事情を説明して、フェイスブックに投稿しないように頼んでいた。だが出席者全員には周知されていなかったのだ。

 

誕生日にもクリスマスにも会ってくれない理由がやっとわかった。白田さんは真実を知ってしまったことをフェイスブックに投稿した。それは直接的な文章ではなかったが、わかる人が読めばわかる内容だった。そして、それを見た後輩が水内に報告した。しかし水内は事態を軽く考え、緊張感のない冗談めいた返事をしたという。それどころか、水内はこれをそのまま放置して別の女性との交際を始めていた。水内は結婚前後、白田さんを含めて人の女性と交際していた。

 

21日夜、白田さんは「社会的制裁を受けてもらう」と書き込む。「都合のいい女」のはずの白田さんが、初めて牙をむいたのだ。水内は焦ったが、それ以上に腹を立てた。なんでも言いなりにできる、「自分より下」に見ていた女からの反抗的な態度に腹を立てたのだ。ようやく事の重大さに気付いた水内だったが、彼が取った行動は常軌を逸していた。24日午前45分頃、水内は白田さんのマンションを訪れて別れ話をするも、今さらまとまるはずもなかった。

 

そして白田さんに「奥さんや警察に言ってやる」と言われて、水内はカッとなり殺害を決意した。命乞いをする白田さんの首をベルトで絞めて窒息死させた。それから白田さんのスマホを電子レンジにかけて壊し、自分の私物を彼女の部屋から持ち出した。この一連の証拠隠滅作業を行うにあたっては、警察が現場捜査の時に使う足カバーを履いていたという。その後、午前30分頃から阿倍野署の道場で剣道の練習に参加し、道場のゴミ箱に凶器のベルトを捨てた。

 

この日、出勤してこない白田さんを心配して、勤務先の病院がマンション管理会社を通じて東住吉署に通報した。これにより、事件は発覚した。東住吉署員が駆けつけると、水を張った浴槽内で服を着たままうつぶせの状態で倒れている白田さんを発見した。いつも始業の45分前には出勤していたまじめな白田さんだった周りの人たちから「連絡無しに無断欠勤などあり得ない」と思われる白田さんだからこそ、勤務先はすぐに通報し、早期の発覚・解決につながった。

 

大阪府警白田さんの交友関係を洗い出す一方で、近隣の防犯カメラの映像を捜査した結果、水内の関与が浮上してきた。白田さんの自宅マンションに設置されていた防犯カメラの記録映像には、黒のフード付きの服を着た水内が約時間後に茶色のジャンパーに着替えて出ていく様子が写っていた水内は同日夕方に任意同行を求められ、翌25日に逮捕されれることになった。しかし、数々の証拠を突きつけられても水内は当初、取り調べで関与を否定していた。

 

201515日、大阪地裁にて水内貴士被告の裁判員裁判の初公判が開かれた。起訴内容について、水内被告は「間違いありません」と認めたため、公判では量刑が争点となった。水内被告は「交際の事実を妻や警察に告げると言われ、カッとなって衝動的に殺害した」と供述した。検察側は冒頭陳述で、水内被告は「結婚前後から、被害者以外の複数の女性と交際していた」と述べ、「不適切な女性関係を府警や妻に知られることを警戒していた」と指摘した。

 

水内被告は「突発的な犯行だった」と計画性について否定していた。しかし検察側は特定が難しい革製ベルトを凶器として持参するなど計画性があったと指摘した。また、犯行後の偽装工作も、直腸温度を上げ死亡推定時刻をずらすために被害者の遺体を浴槽に沈めたり、被害者のスマホを電子レンジにかけて破壊した。また、防犯カメラを意識してマスクで顔を隠し、さらに被害者殺害した後は着替えるなど、警察官の知識を悪用するなど悪質であると主張した。

 

同年10日、論告求刑公判が開かれ、検察側は水内被告に懲役20年を求刑した。検察側は「命乞いする被害者の首をベルトで躊躇うことなく絞めた」と指摘。ぐったりした後も両手で首を絞め、「強い殺意に基づく冷酷かつ執拗な犯行」としたうえで「国民の生命を守るべき現職警察官による殺人で強い非難に値する」と主張した。一方、弁護側は最終弁論で「突発的な犯行で、事件後に懲戒免職処分になるなど制裁を受けた」として懲役14年が相当と主張した

 

10日の判決公判で、大阪地裁は水内被告に懲役18年の判決を言い渡した。裁判長は判決理由で「事前に殺害があり得ると考えていたとは認められない」と、計画性については否定した。一方で、命ごいをした白田さんの首を執拗に絞めるなど、犯行の悪質性を指摘し、「警察官として人々の生命を守る義務に反して、他者の生命を奪ったことは強い非難に値する」と述べた。水内被告と弁護人、検察側も控訴せず、水内貴士被告の懲役18年の確定した。

 

水内地元の志紀学園幼稚園・永畑小学校を経て奈良県に引っ越し、三郷小学校に転校した。その後再び八尾市に戻り、金光八尾中学校を卒業。高校は近畿大学附属高校に進み、卒業後は大阪府警の警官になった。水内の父親と弟も警察官だった。小学校で同級生だった女性によると、水内は「礼儀正しく正義感も強い子だったという。剣道の成績が良くて府警に入れことを喜んでいた。実際、剣道五段の水内腕前署内でもかなりのものだったという

 

2013月、東日本大震災の被災地支援として宮城県警に出向した。この本事件の被害者となった白田光さんと知り合って、付き合うようになった。しかし、水内「白田さんは複数いる交際相手のひとりに過ぎなかった。大切に付き合おうという気持ちはなかったし、いずれ自然消滅するものと思っていた」と証言している。そして201524日、本事件を起こして白田さんを殺害した。大阪府警監察室は同年213日付で、水内を懲戒免職処分としている。

 

本事件の被害者になった白田光さんは山形県出身で、三姉妹の末っ子だった。小学年からバレーボールを始め、高校時代には全日本高校バレーボール選手権大会にも出場した。中学生になった、がんに侵された祖母の看病をした経験から福祉の道を志し、仙台市に所在する東北福祉大に進んだ。大学年だった2011年、今度は母親ががんで入院すると、時間を見つけては山形に帰り、病床の母親に寄り添った。そんな時に出会ったのが水内貴士であった