浦添市は那覇のすぐ隣にあり、現在では閑静なベッドタウンとなっている。沖縄戦が終わってから13年、復帰まであと14年の1958年、この街で凄惨な事件が起こった。Aという29歳の青年がある日、浦添市沢岻付近の幹線道路で、走行中のトラックに飛び込んだ。Aは一命を取りとめたが、「可愛いやつを殺した。俺もこの車で轢き殺してくれ」とわめいていた。
Aはその少し前にも、近所に住む遠縁の自宅を訪れて、トラックに飛び込んだ時と同じようなことを話していた。Aは「一番可愛いやつを殺してしまった。こうなれば、君や親戚のものたちを全員皆殺しにしてから、俺も死んでやる」と叫んでいた。そして、Aは、ズボンのポケットから、切り取ったばかりの血まみれの片方の乳房を取り出して、親戚の青年に差し出して見せた。
Aは遠縁を訪ねる前の晩、同居する妻であるB子(19)を近所の林のなかで撲殺し、彼女の死体とともに一夜を明かした。B子の死体の皮膚には「スキ」という文字が刃物で刻まれていた。彼はナイフでB子の死体から片方の乳房をえぐり取り、それをポケットに入れてふらふらと彷徨い、死のうと思ってトラックに飛込んだのである。殺された時、B子は妊娠していた。
この事件は猟奇的で残酷な殺人事件として当時の新聞などで詳しく報道されているが、青年AやB子の詳しい生い立ちまでは記録されていない。わかっているのは次のことだけである。Aは地元の地主の長男で、8000坪の土地を相続によって所有していたが、事件を起こす頃には全部売り払っていた。定職に就かず、強盗、窃盗などを繰り返し、前科7犯だった。
そして、当時の新聞は「宜野湾村真栄原新町の飲み屋で働いていたB子と知り合い、彼女の前借を支払って身うけし、一緒になった」と報じた。ふたりはこうして出会い、隣町で家を借りて所帯を持った。ところが、Aは犯罪を繰り返すだけではなく、独特のパーソナリティの持ち主だった。それは異常な独占欲である。Aは所持金が尽きたことから、B子と心中しようしている。
沖縄タイムスは次のように報道している。「AはB子を異常なほどに愛しており、買物、入浴、どこへでもついていくといった溺愛ぶり。ときどき冗談でB子と別れるぐらいなら死んだ方がいいともらしていたようだ。一方、B子には、心中といった暗いところはどこにも見えず事件当夜(20日夜)、普段の通り翌日の朝飯の準備も済まし、普段着のままスリッパで家をでている」
「AはB子がそばを離れるのを極端に嫌い、隣にいっても5分と待たずに呼びにいった。Aは最近、生活に自信を失っていたことから、B子が逃げ出しはしないかという恐怖からこの犯行を起こしたと警察ではみている。B子は器量もよく、性格も朗らかだった。AはB子といっしょになってからは酒もピタっと止めゴロ仲間も遠ざけ、B子を愛することで毎日を楽しく送っていた」
「AとB子は買物、入浴、どこへでも一緒について行くというおしどり夫婦だった。しかし、Aがいくら溺愛しても彼は前科者であり、定職もなかった。おまけに風貌は上らないときているため、常に逃げられるかもしれないという不安がともなっていた。B子がちょっと隣家に行っても5分と待たずに呼びに来た。その都度“何もしなくていいから俺の側にいてくれ”と頼み込んだ」
「その間、Aの土地を売って得た金も使い果たし、20ドルの借金さえつくってしまった。払う見通しも、ないので近くの小間物あ店からの延売も気まずくB子さんはとうとう買い物にも行かなくなった。そのためAが代りに行くことはしばしばだった。劣等意識の人一倍強いAにとってはこうしたことでB子が自分と別れるのではないかとそのことだけで頭がいっぱいになったようだ」
事件の主人公であるAは譲り受けた家の財産を蕩尽してしまう。当時の浦添は拡大していく那覇都市圏の一部分として、いくらでも宅地の需要があった。不動産業者などが一斉に「地主のボンボン」であるAに群がったであろう。事件直前に手持ちの現金がほとんどなかったことから考えても、彼は先祖から譲り受けた土地を二束三文で売り飛ばしてしまったのだろう。
被害者のB子は宜野湾の真栄原の「飲食店」で働いていたが、Aに「身請けされた」というところから、明らかに売春婦だった。宜野湾の真栄原新町、あるいは「真栄原社交街」は、つい最近になって沖縄県警が本腰を入れて排除するまで、有名な売春街だった。B子は多額の前借があったことから、人身売買によって地方から連れてこられて、働いていたのだろう。
当時はこのような「貧しさからの売春」が多かったし、B子の両親はブラジルに移民している。渡航費を自前で用意するケースも少なくなく、もしかしたらB子の「前借」は貧しかった両親がブラジルで「一旗あげる」ための軍資金だったのかもしれない。両親がブラジルへ移民したことと、B子が真栄原で働いていたことの間にどんな関係があるか今となっては知る術はない。
Aは真栄原から身請けしたB子と所帯をもつときに、彼は自宅ではなく、わざわざ隣町で下宿を借りている。おそらく家族とは一切の縁が切れてしまったのだろう。彼は新聞記者からのインタビューに答え、「家族から見放されました」と答えている。そして、土地を全て手放し真栄原新地の女性と結婚した彼は事件の前からたったひとりきりになっていたのではないだろうか。
そして、遠いブラジルの親から離れ、たったひとりで体を売っていたB子にとって、Aはどのような存在だったのだろう。定職にも就かず手持ちの金も使い果たした彼のために、B子は小禄の空軍基地内でのペンキ塗りの仕事を見つけてきた。初めのうちは、ふたりで仲良く仕事に出掛けていたが、やがてAはその仕事すら放棄した。それでもB子は、Aのもとを離れなかった。
事件当時、B子は妊娠4か月くらいだったと伝わる。殺された夜、B子は次の日の朝食の仕度を済ませ、普段着のままで、林のなかに出かけている。Aは取り調べの際に、「心中に失敗した」という主張を繰り返していたが、B子の様子からみて、Aを心底信じ切っていたように思える。その夜、真っ暗な雑木林のなかで、ふたりはどのような会話をかわしていたのだろうか。
低俗な沖縄タイムスによって、「オッパイ殺人事件」などと殺人を軽んじていると感じるほど「コミカル」な名前を付けられたこの事件は、1959年2月27日、琉球民裁判所の下級審にあたる「巡回裁判所」で、懲役4年6か月の判決が下された。驚くほど軽いこの判決は相手方の意思に基づく「承諾殺人だ」というA被告の主張がかなりの部分認められたことによる。
当時は新聞記者による被告のインタビューが許されていた。Aと記者との一問一答が掲載されている。彼はそのなかで、「判決は重すぎるので、上告しようと思う。更正しようと思っても、これではどうしようもないではない。Aが上訴したのか記録は残っていない。これで刑期が確定したとしても、1964年頃には出所しているはずだが、その後のAの消息は知る由もない。