亡くなった大場啓仁一家

 

1973年9月6日午前4時、伊豆半島南端の石廊崎に近い静岡県賀茂郡南伊豆町池野原の奥石廊崎展望台(愛逢岬)下の海岸で男女ふたりの溺死体釣り人によって発見され、その後さらに幼い子どもふたりの遺体も見つかった。警察捜査した結果、東京都豊島区南長崎3丁目のマンションに住む立教大学一般教育部助教授である大場啓仁(38)とその妻の順子さん(33)、及び6歳の充ちゃんと4歳の晶ちゃんの幼い姉妹であると判明した

 

飛び降りた20メートル上の断崖には、「大変迷惑ですが、親子4人、この下の淵で投身自殺をしておりますので、お届け下さい」と、身元と現住所を明記した置き手紙が残されていたことや、遺体の状態などから、2日前の9月4日に崖の岩場から飛び降りて無理心中したものと警察は判断した。自殺の原因は大場が大学院英米文学科修士課程に所属する教え子の関京子さん(24)との不倫関係清算に失敗し、彼女を殺害したことが発覚したためである。

 

大場の教え子だった関京子さん

 

しかし、この時点では関さんは行方不明の状態であり、遺体は発見されていなかった。一家心中から5月半後の197428午後2時頃、八王子市鑓水の野菜畑から女性の一部白骨化している腐乱死体が警察の捜査によって発見された。遺体はうつ伏せの状態で深さ約メートルの土中に埋められていた。この遺体が大場が殺害した関さんだった。大場は彼女の遺体が見つからないことに自信を持っていたらしく、完全犯罪をもくろんでいた

 

大場は結婚していたが、スマートな風貌と陰翳的な雰囲気から女子学生の人気は高く、女性関係をめぐる風聞は絶えなかった。だが、関さんとの関係は教員と教え子の「火遊び」では済まないほど深化していた。大場は関さんが学部生だった年前から性的関係を維持し一方、関さん甲府市の資産家である両親から、早く帰郷し身を固めてほしいとの要望に反し、大場と付き合うため修士論文提出をあえて延期するほど、大場との関係にのめり込んだ。

 

そうしたなか、大場は関さんから「妊娠した」と告げられ、関係が冷めた妻との離婚を要求されyていた。一方、妻の順子さんは大学の後輩でもある関さんと夫の不倫に気が付いておりふたりの密会現場に踏み込んだり自殺未遂をするなど、大場に関さんとの関係清算を強く迫っていこのジレンマに苛まれた大場は関さんの殺害を決意。逢引のため利用していた恩師の別荘に関さんを呼び出し首を絞めて殺害した後、別荘付近の荒地に穴を掘り埋めた

 

関さんは大場との愛人関係に悩み、さらに悪性リンパ腫のであるホジキンリンパ腫のため体調を崩し、静養のため山梨県甲府市で呉服店を営む実家に暫く帰省していたが、197319日に慶應義塾大学病院での定期治療のため上京した。当日午後、関さんは新宿駅地下のダイアナ靴店新宿店で、売れ筋とはいえない特徴的な赤いハイヒールを購入した、その日は獨協大学生の弟と一緒に下宿していた東京都北区十条の親戚宅に宿泊した

 

しかし、翌20日に「友達に会うので遅くなる」という伝言を残して最後に連絡が絶えた。両親は分別のあるの行動としては不可解なうえ、健康状態も心配だった。だが23日になって「週間ほど旅行します。日には、帰ります」という21付け新宿局消印の関さん直筆の手紙が実家に届き安心した。また、30日には大伴旅子なる人物から、「遊覧船では厄介になりました。貴女の彼に宜しく」との礼状が現金2万と共に実家に郵送されてきた。

 

1973年当時、大卒初任給の平均は57000円であり、大学院生の所持金としては大金であるため、両親は関さんとの音信不通はあくまで家出ではなく、裕福な異性との長期旅行と信じてしまった。そして、嫁入り前の娘風評も気にして、大学や警察への捜索願いの届け出躊躇っていた。しかし事件発覚後、これらの着信はすべて大場の偽装工作だったことが判明しいている。そのうえ大場は関さんの実家を訪れ、両親からの相談に親身に対応していた。

 

大場啓仁は立教大学文学部英米文学科を卒業後に同大学院の博士課程まで終えた立教大学の生え抜きである。これといった研究業績もなかった彼が幸運にも同大学一般教育部の専任講師に採用され、さらに助教授にまで昇任できたのは、おそらく恩師で英米文学科の実力者であった細入藤太郎教授による強い推しのおかげだと見られている。それを知っていたであろう大場は細入教授に気に入られるよう何かにつけて取り入る努力を怠らなかったようだ。

 

細入教授をボスとして、細入門下で大場の8年先輩の同僚である水田寿一立教大学助教授(45)と親友で細入教授の妻の実弟・加藤忠彦専修大学助教授、彼らの「母親的存在」で学生の時に大場と関係があったとも言われる阿部澄子立教大学アメリカ研究室職員(48)が、強い絆で結ばれたいわば大場の「ファミリー」だった。大場が関さんを殺し遺体を埋めたのは東京都八王子市鑓水地区に2600坪もの広大な敷地をもつ細入教授の別荘だった。

 

そして、大場は関さんを殺害した後にその足で、それまでにも数々の女性問題の相談に乗ってもらっていた阿部澄子を池袋駅近くの喫茶店に呼び出して、事件を起こした時間の自分のアリバイ証言を依頼している。阿部は大場と関さんとの関係を以前から聞き及んでいたようだが、話の中で関さんの殺害をほのめかすようなことを大場に言われたことから、さすがに怖くなった。そこで、翌日には直ぐに実弟の加藤に相談したため、大場の話は水田にも伝わることになった。

 

驚いた加藤と水田が大場を呼んで問いただすと、「やっちゃったものは仕方がない」と悪びれる様子もなく殺害を認めるかのような口ぶりながら明確には答えず、特に死体を遺棄した場所については最後まではぐらかした。大場は遺体さえ発見されなければ警察は殺人事件として捜査しないと考えていた。さらに、大場は行方不明になった関さんを懸命に探しているような工作をおこなった。大場のそうした態度に加藤と水田は呆れ、憤りながらも警察への通報はしなかった。

 

そこには彼らが「身内」を守ろうとする意識と共に、事件が明るみになった際に、大学や自分たち関係者にもダメージがあるはずであり、それを少しでも減らしたいという保身する心理が働いたと考えられている。さらに、彼らがもうひとつ心配したのは大場の妻である順子さんのことだった。彼女は以前にも、大場の女性問題を苦にしてガス自殺未遂を図ったことがあり、今回はさらに問題が深刻なだけに子どもたちも巻き込んだ最悪の事態が起きることを懸念したのである。

 

大場啓仁一家が身投げした石廊崎

 

もし加藤と水田が速やかに警察に通報していれば大場本人や、その家族3名の4名が命を落すという極めて陰惨な状況は防げたはずである。彼らは大場に自首を薦めていた。ところが、彼はそれに応じなかった。大場は妻に関さんの殺害を告白した。それを知った順子さんは離婚を勧める加藤・水田の助言に耳を貸すことなく、一家心中によって決着をつけることを決意し、大場は順子さんの強い死への意志に引きずられるようにして、9月4日の一家心中へと突き進んだ。