荒木虎美

 

19741117日午後10時頃、大分県別府市のフェリー岸壁から、台の車が転落する事故が起きた。この日は小雨が降る肌寒い夜だったが、釣りのスポットであるこの場所には人の釣り人がいて、事故を目撃していた。転落した車は約40kmのスピードで走行していて、ブレーキもかけずに転落したという。まもなくひとりの中年男性が、車から自力で脱出して泳いできた。釣り人たちはこの男性を救助し、警察に通報した

 

転落した車から脱出してきた男性は「車の中には、妻と子供が残っている。助けてくれ」と懇願したが、救護用の装備も経験もない釣り人たちとってうにかできるはずもなかった。この男性は病院に搬送され検査を受けたが、両手の甲に軽いかすり傷を負ったほかは異常はなかった。警察は午後1150分頃、男性に出頭を求め事情聴取を開始した。男性は荒木虎美47)といい、この日は家族でドライブをしていたと話した

 

事件があった別府市のフェリー岸壁

 

荒木は警察の調べに対して、「事故当時はが運転していて、自分は助手席でうとうとしていたら妻の悲鳴で目が覚め、気付いた時には海に転落していた」と説明したそのうえで、「海中でフロントガラスが割れていることに気が付いたので、自分は、そこから脱出することができたが、家族を助けるまでの余裕はなかった供述した。そのうえで、「車内には、彼の41)、長女12)、次女10)の人が取り残されている」と話した。

 

海に沈んだ車は午後1130分頃には、既に警察によって引き上げられて、調べられていた。海に転落した車は転覆した状態で沈んでいて、警察が車内を確認すると荒木が話した通り、溺死した状態で家族3人が見つかった。長男15)だけは、受験勉強のため家にいて難を逃れていた。荒木は当初、メディアから不運な事故で家族を亡くした悲劇の父親と感じで報道されていたが、調べにあたった警察はそうは見ていなかった。

 

なぜなら、亡くなった荒木の家族は名ばかりで、妻とは3か月前に籍を入れたばかりで、亡くなった子どもは妻の連れ子だった。さらに亡くなった家族には億円もの保険金がかけられていたからだ。事故現場に駆け付けた警官も、当初から違和感を抱いていた。現場には、タイヤのスリップ痕もなく、「妻が運転して自分は助手席にいた」と不自然なほど強調し、妻子が車に残されているにしては荒木の態度は妙に落ち着いていた。

 

警察は事故事件の両面から捜査を開始した。そして調べれば調べるほど荒木には様々な疑惑が沸き起こった。彼にはいくつもの前科があり、1949愛人女性が妊娠したため、堕胎を依頼した鍼灸師に対し、「医師法違反だ」などと恐喝した。1950には家に保険金をかけて放火した罪で懲役年の実刑判決を受けて服役した。これ以外にも恐喝罪などで逮捕されていたため、警察では「九州一のワル」と呼ばれていた。

 

荒木は「運転していたのは妻」と主張したが、警察は保険金殺人に重点を置いて捜査する方針を決めた。荒木は保険会社に保険の支払いを請求したが、「警察の事故証明がなければ支払えない」と拒否された。そして、警察は調査中として交通事故証明書の交付を拒否した。その頃より、報道は悲劇の父親から疑惑の容疑者へと変わっていった。荒木は「死ぬ危険を冒してまで保険金殺人をするはずがない」と主張した。

 

しかし、このような世間の空気に焦ったのか荒木は驚きの行動に出。事故から日後、荒木は記者会見を開い、「保険など嫌いだが、妻が入りたいというから仕方なく入った」と力説。さらに、「自分は受取人ではない」と主張。だが、実際は受取人である娘ふたりが亡くなった場合、受け取る権利は荒木に移るのだが、そは会見では伏せていた。受取額は長男の2600万円に対して、荒木は10倍以上の8400万円だった。

 

番組の打ち合わせをする荒木


この記者会見での不遜な態度は全国に放送され、荒木に世間の批判が集中。警察にも「逮捕しないことへの苦情」が多数寄せられる事態となった。とはいえ、決定的な証拠がない状況では警察は逮捕できなかった。そんな世間の批判を沈めようとした荒木は1211日、当時人気テレビ番組だった時のあなた」に出演した。ここでも潔白を主張したが、ゲストから証言の矛盾点を指摘されると、席を立ちスタジオから退場した。

 

憤慨してスタジオを後にする荒木

 

スタジオを後にした荒木を大勢の報道陣が待ち構えていた。そこで荒木は、フジテレビ応接室にて緊急の記者会見を開き、改めて自分は無実であると懸命に主張している。午後50分、テレビ局を出た荒木を待っていたのは警察であった。実は荒木には既に逮捕状が請求されていたのだが、一部のマスコミがそれを報じてしまっていたことから、警察は荒木の逃亡を恐れ、それを防ぐため殺人容疑で急遽逮捕に踏み切ったのだ。

 

ところで、荒木という姓は本事件で被害者となった妻の姓であり、出生時は「山口」姓だった。九州の司法関係者の間では、彼「犯罪のプロ」としで知られていた。荒木虎美ではピンとこなかった捜査も、山口虎美と知って身構えた。その山口1927日、大分県南海部郡青山村(現:佐伯市)に生まれた。実家は裕福な農家で、幼いから秀才として知られた。194312津久見町立工業学校を繰り上げ卒業

 

その後海軍に進み山口は海軍飛行予科練習生となり、特別攻撃隊に選ばれていた。そして、指宿基地から度出撃しているが、エンジントラブルでその目的を果たせなかった。1948年に新制青山中学校の代用教員となったが、生徒からの人気を集めた。同年秋、隣村の娘と結婚し、その後、ふたりの子どもをもうけた。翌1949月、不倫相手を妊娠させてしまい、佐伯市内でもぐりで堕胎をしていた鍼灸師に中絶を依頼した

 

ところが、施術の際に不倫相手の女性が鍼灸師に強姦されたことを知ると、山口は激怒した。彼は駐在所の巡査になりすまし「医師法違反と堕胎罪を世間にばらす」と脅迫した。そして、山口は堕胎費用として渡していた1500円のうちの800円を脅し取った。この事件が発覚して山口は警察に逮捕され、代用教員の職を失った。知人たちには、「左翼運動で共産党に近づいたため、思想犯として弾圧を受けた」とウソを話していた。

 

村では山口に対する、同情する声があがり、減刑嘆願の署名運動も行われたものの、同年末に懲役月執行猶予年の有罪判決を受けた。その後、別府市に移って精肉店を開業したが、店はうまくいかなかった。1950月、火災により店は全焼し保険金162500円を受け取る。この火災は山口による失火とされていた。だが、火災の週間前に保険がかけられていることが発覚し、放火罪保険金詐欺で起訴された。

 

山口は失火は認めたが、放火と保険金詐欺については犯行を否認、最高裁まで争った。ところが、火災発生時に山口が店にいたという目撃者が現れ、懲役年の実刑判決を受けて服役した。この時も山口は反権力活動に従事したために権力側に目をつけられ、罪をでっち上げられたと主張。なお、この裁判では、保釈中に青山村の郵便局に侵入し、為替用紙を盗み証書を偽造したとして逮捕され、放火事件と併合審理された。

 

山口は、サンフランシスコ講和条約発効の際の恩赦により減刑され、年半で仮出所した。その後、不動産業を始めている。山口は1960年、火災保険詐欺の裁判で不利な証言をしたことに激怒して、妻と離婚し、1966には、公文書偽造・同行使事件で懲役6か月執行猶予年を受け1967には、不動産業の共同経営者の妻とトラブルに絡んで婦女暴行、傷害、脅迫事件を起こして懲役6か月服役。


197211月に宮崎刑務所を出所、別府市内で(不動産免許を持たないで口利きで手数料を得る)不動産ブローカーとして生計を立てた。1973月には恐喝未遂事件を起こし、懲役6か月の判決を受けている。(本事件の転落事故を起こした当時は上告しており保釈中の身であった そんな中、本事件の被害者となった女性と知り合うことになった。彼女は生活保護を受給しながら、人の子どもを育てる未亡人だった。

 

彼女の長男と長女は山口のことを嫌っており、懐くことはなくふたりは荒木のことを「アレ」と呼んでいた彼女自身も結婚には乗り気ではないまま約年間交際を続けた。そして、山口の強引なプロポーズに根負けしたことや、3人の子供の将来を考え山口のプロポーズを受け入れ1974日に籍を入れた。子どもたちへの配慮から、山口が婿養子の形で妻の戸籍に入って荒木姓を名乗り、連れ子人とも養子縁組を結んだ。

 

19741117日、本事件を起こした。大分地裁は1980年3月28日、荒木被告死刑判決下った。荒木被告側即日、控訴した。しかし、福岡高裁は一審の死刑判決を支持して、荒木被告側の控訴を棄却した。またも荒木被告最高裁に上告した。上告中の1987年、荒木はと診断されて八王子医療刑務所に移監された。198913日に癌性腹膜炎により獄中死公訴棄却となった。享年61だった。

 

この事件は決定的な物証がなかったが、状況証拠は真っ黒だった。物証がないにもかかわらず、一審二審とも死刑の判決が出された。その理由として荒木被告は妻が運転していたと主張していたが、運転席している荒木の顔を覚えているという証言者が出てきたことや、億円という多額な保険金が、動機として強い」こと、「裁判中、荒木は自身に不利な証言をした証人を罵倒するなどして、裁判官の心証を悪くした」ためとも言われる。