小林光弘

 

青森県南津軽郡浪岡町(現:青森市浪岡)在住タクシー会社勤務していた小林光弘(事件当時43)は人当たりも良く、勤務態度も真面目と評判だった。結婚して子どもに恵まれ、ローンを組んで家も買った。趣味は少額で楽しむ競輪で、大穴を当てる快感を楽しむ程度だった。そんな小林は1997年のある日、知人であるから借金を依頼される。彼女は小林の結婚式で仲人をしてくれた恩人だった。

 

そんな事情もあり、彼は子に言われた通り、つの消費者金融(サラ金)から50万円ずつ、合計200万円を借りた。さらに妻もサラ金で50万円を用立て、合わせて250万円をA子に渡した。A子からは「面倒を見ているひとり暮らしの老人から近々1000万円もらえる予定だが、その手続きに金がいる」説明されていた。サラ金には抵抗があった小林だが、恩人でもあるし「すぐに返ってくるなら」と考えて借りたのだ。

 

しかし、A子から返済されることはなかった。それどころか、そのうち彼女は行方をくらましてしまうさらに悪いことに、サラ金に抵抗のなくなった小林は競輪の資金を借りるようになってしまった。小さな楽しみだった競輪は、いつしか数万円を投じるようになり、自らも借金を増やしていった。時には会社から前借りした20万円を全部つぎ込むようこともあった。当然、返済は滞り、職場にも催促の電話がかかってくるようになった

 

窮した小林は父親に頼り、生活費の面倒を見てもらうようになった。そのお陰で余裕のできた小林は心機一転運送業を始めた。その後、驚くべきニュースを知った。行方をくらましていたA子が宮城県で一家心中したと新聞に掲載されていた。A子は家族ぐるみの詐欺により指名手配されていて、被害者は小林以外にも複数人いるようだった。これによりA子に貸した250万円は名実とも小林夫妻が負うことになた。

 

だが、小林がこれを自力で返すことは、とても無理な話だった。小林は母親に泣きつき、A子に貸した250万円を返済したところが、競輪による借金は隠しており、それは残ったままだった。その後も競輪の借金は280万円まで膨らんでいった。2000年、小林が42歳の時に父親が他界。小林は遺産を得ることになった。これは借金を帳消しにできる、またとないチャンスだったが、彼はこれを自ら棒に振る行動に出

 

小林は緑のサンバー)を買い、残りを借金返済に充てることはなく、全て競輪につぎ込んだ。さらに車を担保に60万円を借り、これも競輪でなくしてしまった。これを知った母親と妻は激怒した。小林は土下座して謝り、競輪をやめる」と誓った。母親は「次やったら母子の縁を切る」と厳しく言いつつも、車は生活に必要だろうと60万円を貸してくれた。こうして車を担保に借りた60万円は返済することができた

 

ところが、この後の小林信じられないものだった。何と、彼はもう一度車を担保に借金をし、これも競輪で溶かしてしまったのだ。2001月、小林は一度辞めたタクシー会社で再び働き始めた。しかし、競輪で作った借金は返せなかった。そうなると、担保の車は取られてしまう。しかし、車は通勤や生活に必要であり、どうしても手放せなかった。次第に追い詰められた小林は返済のカネを作るため強盗の計画を立て

 

小林はサラ金の店舗を襲うことに決めた。ガソリンを撒いて火をつけると脅せばカネを出すと考えた。サラ金の店舗には大金があり、銀行より警備も甘いだろうし、職員の抵抗も厳しくないはず』と小林は想像した。2001日にはガソリンスタンドでガソリンを購入。小林は日、仕事を休んだ。車は妻が使うことになっていたが、小林は妻に自転車で行かせ、妻が出かけた後、ツナギを着て車に乗り込んだ。

 

そして、犯行の舞台となる「武富士・弘前支店」に車を走らせた。この店舗に決めた理由は、これまで自身が利用したことが一度もなく、顔が割れていないからだった。到着すると駐車場に車を止め、手順をおさらいした。それからビルに入り、階段の踊り場にガソリンを染み込ませた新聞の束を置いた。万一追われた場合はこれに火をつけ、追手の邪魔をするためだった。午前1045分頃、遂に小林は階の店内に入った。

 

自動ドアが開き「いらっしゃいませ」と女性店員が声をかける。それを無視して小林は「うりゃっ!」という掛け声と共に、持っていたオイル缶に入っていたガソリンをカウンターの中にぶちまけた。この時、撒かれたガソリンの量は約リットルだった。受付の女性が「何?! これ?」と声をあげた。臭いでガソリンだと気づいたの女性が「ガソリンだわ!」悲鳴を上げ放火の可能性を察知した男性店員が「奥へ逃げろ!」叫んだ。

 

店員たちは一斉にカウンターの奥にある部屋へ駆け込んだ。小林は「カネを出せ!出さねば火をつけるぞ!叫んだ。店員らの狼狽ぶりから、『後は金を受け取って逃げるだけだ』と小林は考えていた。ところが、支店長は席に座ったまま、君は!」怒鳴った小林はツナギの作業着のポケットから、ライターと紙を取り出し、「とっとと金を出せ! 出さねば火をつけるぞ!」と火を放つ素振りを見せながら支店長を脅した。

支店長は落ち着いて「金はない答え、自分の机に設置されている警察への通報を押した。小林「ウソをつくな!」と大声で言い返すと、支店長「いや、本当にない。馬鹿なことをやめないと警察に通報するぞ」と言いながら、机の上の電話を取り、110番を押し始めた。それを見た小林は「おい! 脅しじゃねえぞ! 本気だぞ!」怒鳴りながら、ライターで紙に火をつけた。小林の手に持っている紙が燃え始めた。

 


奥の部屋から様子を見ていた女性店員たちから悲鳴が上がる。危険を感じ取った男性店員が「支店長! そいつ本気ですよ!」けんだ。支店長は警察につながった電話で「今、強盗が入って来て店に火をつけました! 大至急パトカーをよこして下さい!」と告げた小林は動揺し、「この馬鹿、本当に警察を呼びやがったな!」と言うと、復讐のためか、ヤケクソなのか、「クソッ!」と叫んで火のついた紙を投げ込んだ。

 

「ボン!」という音を立て一気にガソリンに火がついた。灯油とは違ってガソリンは爆発するように燃え上がる。一瞬でカウンターの中は凄まじい炎に包まれた。炎の中から店員たちの「キャアァ!」「助けてくれーっ!」という悲鳴が聞こえる。余りの炎の勢いに火をつけた本人もこんなはずじゃなかった! 大変なことになっちまった!」驚いていた。小林は急いで店内から逃げ出し、階段の踊り場に置いた新聞の束に火をつけた。

 

火をつけられた武富士の店舗の中には人の従業員がいたが、全員出入り口とは反対方向の奥の部屋に逃げており、猛烈な炎に遮られて脱出できなかった黒煙で店内は真っ暗になり、何も見えない状態なった。支店長を含む4人は窓までたどり着き、呼吸を確保して生き伸びることが出来たが、5人は燃えさかる炎に生きたまま焼かれて焼死した。助かった4人も重い火傷を負うことなった。犯行僅か4だった。

 

小林は朝のニュースで死者がであったことや、使われた車種が緑のサンバー特定されていることを知り動揺した。実は犯行後、小林はビルの外に出ると、自分の車に乗り込み、急発進して現場を離れた。だが、この時の慌てた行動がかえって通行人の目に留まり、車の車種も覚えられてしまっていたのだ。だが、小林に反省する気持ちはなく「カネを出さなかったあのが悪い」と自己中心的考えに終始していた。


マスコミは当然のことながら、も死傷させた犯人を激しく非難する報道を繰り返していた。ところが、本当に自分が悪くないと思い込んでいる小林はうしたマスコミの姿勢に我慢できず、正体を隠して「青森テレビ」に電話している。武富士弘前支店に火を放った犯人は自分カネが欲しかっただけなのに、出さなかった店が悪い。従業員が死んだのは店側の責任だ」と身勝手な主張を伝え、自分を正当化した。

 

また、小林は事件の翌日から普通に出勤していたが、いつか捜査の手が及ぶことを恐れていた。そのため、その後もテレビ局に手紙を送り、目撃情報は間違っている」「犯行に車は使用していない」などと捜査をかく乱させようとしている。こんな浅はかな偽装に、警察が騙されるわけがなかった。もし本当に捜査が見込み違いなら、犯人にとってはそのほうが都合がいいはずで、それをわざわざ教えてくれることなどあり得ないからだ。

 

 

警察の捜査は難航した。短時間の犯行で、しかも現場は焼き尽くされているため、証拠はほとんど残っていなかったしかも目撃された車「緑のサンバー」は登録台数が市内だけでも1800台もあった。そんな中、犯行現場から有力な証拠が見つかた。それは犯行に使用した新聞の燃え残りだった。新聞紙の四隅には印が印刷されているのだが、これがズレて印刷されることがある。現場に残った新聞には、このズレがあった。

 

 

警察は、該当日に印のズレた新聞が配布された地域を特定した。そして、その地域で緑のサンバーを所有していたのは、小林ただひとりだった。2002日、警察は小林に任意同行を求め、取り調べが始まった。そして取り調べ始まった翌日の同小林は容疑を認めたため逮捕された。5人が焼き殺されるという凄惨な事件から10かが経っていた。犯行時着ていたとみられる水色のツナギも小林の自宅でみつかった。

 

小林光弘195819日、青森県南津軽郡平賀町人兄弟の次男として生まれた。平賀町立葛川小・中学校を卒業後、千葉県の木更津東高校夜間部へ進学、1977年に卒業した。事件当時に勤務していたタクシー会社には、1987年から1998年まで勤務した。その後、他のタクシー会社などを転々として2001日に元のタクシー会社に再雇用され。その週間後の2001日に犯行に及んだ

 

2003年12日青森地裁で行われた裁判では、小林は犯行自体は認めたが、「殺すつもりはなかった。従業員も逃げようと思えば逃げられたはず」と殺意がなかったことを強調。しかしそのような主張が通るはもなく、裁判長は「犯行は勝手極まりなく、酌量の余地は微塵もない」と厳しく指弾し、死刑が言い渡された。小林は即日、控訴したが、高裁で控訴を棄却され、200727日、最高裁でも棄却されて死刑が確定した。

 

その後、度の再審請求を行うもすべて棄却されている。しかし、れで諦めず度目の再審請求の打ち合わせを予定していたが、その前に死刑が執行された。件で小林は5人を殺害、及び4人に重傷を負わせており、相応の刑罰を受けることが予想され、当然誰もが小林の死刑を予想していた。ところが公判当初、小林本人は自分が死刑になる可能性をあまり考えておらず、出所後のことについて書いた手紙を母親に送ってい

 

小林は刑執行1年前頃から、肉体的・精神的に変調を来たし、やせ細っていた。カルシウム欠乏症の兆候が見られ。支援者や家族が現金差し入れを行い歯科治療を受けさせたが、末期には差し歯・前歯が欠落し死の恐怖の余り、病人の様に痩せこけていた。また、「便や尿を失禁して布団・衣服を汚す」こともあり、拘禁症状が出ていたとみられている。201429日、宮城刑務所にて小林の死刑が執行された。享年56歳。

 

小林死刑囚の最後の言葉については諸説あ広く知られているのはネット上にある「カネをださんば火をつけという言葉だったと言われるが、真偽は不明だ。小林は死刑執行まで被害者遺族への謝罪の言葉は一切なかった。死刑執行日、小林は刑務官に両腕をつかまれ引きずられながら泣きわめき、糞尿をもらしながら死刑執行台へ連行されている。彼が泣きわめき絶叫し続けた最後の言葉はオラは悪ぐね」だったと言われる。