1987年頃、三重県桑名市の兼岩幸男は保険代理店研修を通じて、夫と子がいる渡辺愛子さんと知り合い、不倫関係になった。兼岩は1989年頃、渡辺さんの協力のもと結婚仲介業を始め、翌年には株式会社を設立した。兼岩は渡辺さんとの結婚を考えたが、本人から「子供もいるし、夫が別れてくれない」と言われ断念。1992年7月に別の女性と結婚した。結婚直前、渡辺さんは自殺するふりをして、兼岩の結婚を止めさせようとし、ふたりの関係は結婚後も続いた。
兼岩夫婦には1994年9月、双子の子どもが誕生した。しかし、11月には会社が倒産してしまった。兼岩は債権者の取り立てから身を隠すため、自宅を出て妻とも連絡をとらず、渡辺さんと生活するようになった。兼岩は1995年2月頃からスーパーで働き、渡辺さんも銀行でパート勤務をして生計を立てるようになった。しかし、パチンコで浪費するなど、いつもカネがなかった。当時、兼岩は破産手続中で、消費者金融等が利用できなかったので、渡辺さん名義で借金を重ねていた。
その年の10月頃に転し、渡辺さんの元を離れ妻子と共に生活するようになった。給料は妻に渡して小遣いをもらう生活になったが、渡辺さんとの生活費や遊興費は渡辺さんの収入と彼女名義のクレジットカード等の借金で補充していた。1996年11月頃、兼岩は渡辺さんから、「アルバイト先のスナックのマスターと恋仲にある」と告げられる。彼は嫉妬心から、翌年1月頃に親戚からカネを借り、愛知県蟹江町に渡辺さんと住む部屋を借り、5月以降は一緒に暮らすようになった。
そのため、兼岩は会社の同僚から借金するようになる。やがて1999年6月頃からは、寿司の宅配のアルバイトもするようになったが、同僚に借金していることを会社に知られ、7月に退職を余儀なくされた。その後、回転寿司等の外食チェーン店「アトム」の幹部社員募集に学歴を詐称して応募し、1999年8月9日に採用されることになった。兼岩はせっかく入社できた大手企業だったので、ここから人生をやり直す気持ちだったが、そうなると渡辺さんの存在が邪魔に感じ始めた。
ふたりの生活のため、渡辺さんは勤務する銀行のクレジットカードで多額の借金をしていた。1999年8月10日、この日はカードの決済日だった。兼岩は返済のカネを用意できなかったことを渡辺さんに伝えると、彼女は「親から金を借りてこい、自分が行ってやる」と罵ってきた。渡辺さんは、”自分が勤務する銀行のクレジットカード”なので神経質になっていた。兼岩はアトムに採用された件を渡辺さんには言ってなかった。もし知られたら『台無しにされるかも知れない』と考えていた。
そして、”渡辺さんと借金が消えれば一石二鳥”だと考えるようになっていた1999年8月15日、渡辺さんは「女ひとり囲えんのに、大きな顔をせんといてよ。こんなんなら、マスターのとこ行こうかな」となじり、飲んでいたビールの缶を投げ付けてきた。兼岩は激高し、渡辺さんへの殺意が芽生えた。兼岩は彼女の腹部に馬乗りになり、首を絞めて窒息死させた。その後、遺体はバラバラにして、愛知県小牧市の造園業者の焼却炉や、名古屋市中川区の河川敷近くの草むらに遺棄。
1999年8月29日、小牧市の焼却炉から渡辺さんの遺体の一部が見つかる。愛知県警は死体損壊・遺棄容疑で捜査を開始したが、身元は分からなかった。渡辺さんの家族は捜索願を出していたが、この頃は未だDNA型鑑定が本格稼働しておらず、身元の確定には至らなかった。兼岩は1999年11月、アトムの開発部部長にまで昇進した。ところが、翌2000年12月、慕っていた上司の失脚にともない兼岩も左遷となった。そうしたことから、同社を兼岩は依願退職した。
そして同月、外食チェーンの「焼肉屋さかい」に入社し、2001年2月には開発本部長に抜擢されるなど出世していった。 兼岩はアトムで得た「出店計画などの出店情報」を手土産に、焼肉屋さかいに有利に就職できたといわれている。外食産業では、ライバル会社の出店情報を経営戦略に活かすのが常套手段であり、兼岩が持っていたアトムの出店情報等は、かなり価値のあるものだったのだ。そんな中、兼岩は2002年3月頃、異業種交流会で村井栄子さんと知り合った。
やがてふたりは肉体関係になった。9月には共同で清掃会社を設立。村井さんが社長となり、兼岩が実質的に経営した。 その年の11月、愛知県一宮市に村井さんのためにマンションを借りた。村井さんは離婚して独身だったので、兼岩との結婚を迫っていた。だが、兼岩は2003年3月頃から、別の女性とも交際していた。さらに、兼岩は地位を利用し、取引業者からバックリベートを得たり、会社の取引に自身の会社を介在させるなどして利益を得るという「背信的取引」をしていた。
兼岩のそうした背信的取引を村井さんが知るようになり、兼岩はこの背信行為を焼肉屋さかいにバラさないことと引き替えに”結婚を迫られている”と感じるようになった。さらに、別の女性との交際のこともあって、兼岩は村井さんを次第に疎ましく思うようになっていった。そして2003年5月15日、兼岩の背信的取引が遂に会社の上司に発覚してしまった。ところが、すぐに解雇されなかったことに安堵して、今後は自身の会社を”単体で利益を上げられる会社”にしようと考えるに至った。
兼岩は焼肉屋さかいで集めた出店計画をコンビニ運営会社に横流しした上、下請けから集めたバックリベートを資金に、村井さんをコンビニのオーナーにした。5月24日、交際していた女性と名古屋市のマンションで過ごしていると、村井さんから頻繁に連絡が入った。やむなく翌25日午前0時頃、村井さんのマンションに向かった。会うと村井さんは兼岩に結婚しないと焼肉屋さかいに情報の横流しをしていることや、愛人を囲っていることバラし、兼岩の妻にも不倫を全部バラすと脅した。
兼岩は激高し、村井さんの殺害を決意する。同日午前1時30分頃、村井さんに馬乗りになって首を絞めて殺害した。浴室で村井さんの遺体を解体し、26日、岐阜県柳津町の境川や愛知県の雑木林に分けて遺棄した。6月2日、岐阜県羽島市の境川左岸で遺体の一部が発見された。岐阜県警のDNA型鑑定の結果、これが村井さんのものであることを特定することができた。当時、村井さんと交際していた兼岩に対し、村井さんの死体損壊、遺棄等の嫌疑がかけられた。
2003年7月15日朝、岐阜県警の捜査員が兼岩の住む名古屋市西区内のマンションに赴き、任意同行を求めた。こうして岐阜県警羽島警察署において取り調べが始まった。午前中、兼岩はほとんど黙秘していた。午後になって村井さんの死体損壊と遺棄を認める供述を始めるも、殺害については依然として否認していた。しかし、夕食後の取り調べで、兼岩は殺害についても認める供述を始めた。翌16日、死体損壊・遺棄容疑で逮捕され、後に殺人で再逮捕されることになった。
9月10日、村井さん殺害で起訴されたが、このころの兼岩は一貫して、村井さんの死体損壊、遺棄、殺害を認める供述をしていた。2003年10月、岐阜地裁で第一審初公判が始また。その裏で、岐阜県警は過去に兼岩と交際していた渡辺愛子さんが失踪していることを把握しており、兼岩の関与を強く疑うようになっていた。そして10月28日、兼岩を取り調べたところ、渡辺さんの殺害を認める供述をした。そのため12月5日、渡辺さん殺害容疑でも逮捕、26日に起訴された。
兼岩幸男は1957年10月30日、三重県桑名市下深谷部で生まれた。父親は在日韓国人だった。母親は日本人であったが、兼岩は父親が認知していない私生児として生まれた。そうした事情から、兼岩の幼少期の頃の生活は貧しく、学校でいじめられた。高校卒業後は経済的理由から、大学進学を諦めて自衛隊に入隊している。(兼岩は母親が日本人だったので、日本国籍を有していた) 兼岩が自分の父親が韓国人であることを知ったのは、25歳の時だったといわれている。
兼岩は2003年10月に岐阜地裁行われた初公判で、1999年の一宮市における渡辺さん殺害事件の起訴事実を全面的に認めていた。ところが、2004年11月8日の公判では、なぜか突如として殺人を否認し、死体遺棄のみ認めた。同年12月13日の公判で、渡辺さんについては「自殺だった」と主張し、村井さんについては「包丁で襲ってきたので正当防衛だった」と主張した。さらに、それまでの兼岩の供述は「警察官による自白の強要であり、黙秘権の侵害があった」と訴えた。
弁護側は2006年3月24日の公判で、全くの無罪主張には無理があると判断したのか、その辺の事情は判らないが、兼岩の精神鑑定の実施を申請している。対する検察側は「ふたりの殺害は確定的殺意に基づく計画的かつ残虐な犯行であるり、執拗かつ残虐な犯行で反省の態度も認められない」と糾弾したうえで、精神異常を否定している。結局、岐阜地裁は弁護側の主張を却下し、検察側の主張を認め、2007年2月23日、岐阜地裁は兼岩に、死刑判決を言い渡した。
2008年9月12日に名古屋高裁開かれた控訴審でも控訴棄却された。控訴審も原審の死刑判決支持したのだった。しかし、兼岩の弁護側は二審の上告審も不服とし、最高裁にまで控訴した。しかし、最高裁の判決公判で裁判長はは2011年11月29日、「いずれの事件も冷酷、残忍な犯行で動機に酌量の余地はなく、ふたりの命を奪った結果も重大。死刑はやむを得ない」と指摘し、上告を棄却し、兼岩幸男の死刑が確定した。現在は名古屋拘置所にて収監中である。
兼岩幸男は2009年に獄中で絵を描いている。上記のような仏のイラスト7点を「極限芸術ー死刑囚は描くー(2017年)」展に出展している。このイラストだけを見ると、スマホの待ち受けにしたら縁起が良さそうな気さえする。誰もがこれが「恐ろしい殺人鬼」が描いたとは、とても想像できないだろう。穏やかな仏ばかり描いているのは被害者を弔う気持ちの現れなのか、それとも自らの定められた死の恐怖を和らげるため、あるいは死後の自身が救われることを望むのもだろろか?