1956日朝、東京足立区千住緑町に所在した日本最大手の日本皮革(現・株式会社ニッピ)試験工場階でひとりの技師28大いびきをかいて眠ているのを同僚が見つけた。机上には遺書があり、「致死量0.11mg、死、死・・・・ああ怖い・・・あと、分」と書かれていた。6通の封書があり、宛先は「母上様」「愛する妹へ」「市田奥様」「常務様」「川上君」と「事件経過書」だった

 

事件経過書には、8枚の便箋に同僚殺害の様子や死体を処分する様子が書かれてあった。それによると、眠っている技師K同僚の技師のSさん(35)をハンマーで殺害し、工場内の研究室前にある原皮樽の中に入れて遺体を溶かしているのだという。同僚の職員は直ちに上司に報告し、同社の常務が同日朝9時すぎ、警察に「部下が殺人をおこした疑いがある」と緊急通報を入れた。

 

通報を受けて警視庁捜査一課の捜査官らが同社に駆けつけた。そこで、の傍には白い粉の入ったカプセルが置かれており、自殺劇物と見られたが、男の様子に異常な点はなかった。警官らが手錠をかけようとすると、は激しい抵抗を始め、分ほど暴れたが、取り押さえられ逮捕された。はすぐに足立病院に運ばれ、胃洗浄などをしたが、青酸反応はなく、泥酔しているだけだということがわかった。

 

一方、さんの遺体が入れられているという樽の中も調べられた。樽は直径0.71m、高さ120mのもので、中身が見えない様に蓋をして縄で縛られてあった。捜査官と職員が中を覗いてみると、半透明程度のコバルト色の液体が分目ほどまで入っているだけで、浮遊物はなかった。液体はきつい酸の匂いがして、樽の下の方に穴を開けると、人間の骨の一部と見られるものが液体とともに少し流れてきた。

 

樽の底には10円玉硬貨、プラスチック製のボタン、ビニールの名刺入れ、鞄の留め金具などがあるだけで、他のものはすべて溶けきっていたようだった。さんの骨もほぼ残っておらず、頭蓋骨も溶けて小さくなっていたが、かろうじて原を維持している状態だった。だが、もう少し発見が遅れれば、完全に溶けてしまったと思われた発見された頭蓋骨後頭部に鈍器で殴られたような跡が3か所あった。

 

警視庁の調べによると、228給料日だったことから、午後時頃さん「研究所で飲もう」と誘った。午後15分頃、がウイスキーと二級酒、マグロ刺身を用意して待っていたところ、Sさんがやってきてふたりで飲み始めた。ずいぶん酔いもまわって雑談している時、さんがKに向かって「お前が博士のデータを独占しているのは横暴だ」「お前は若造のくせに生意気だ」などと文句をいわれた。

 

やがて掴み合いの喧嘩となり、は戸棚の中にあったハンマーを取り出して、さんの頭を2~3度殴りつけて殺害した。そして、KはSさんの遺体を研究室前の樽の中に遺棄したはその後、出前で届けられた寿司を少し食べ、服についた返り血を洗い、溶けないさんの眼鏡と靴を持って、午後50分頃に工場を出た後、一旦帰宅した。Kの自供によれば彼はこの時、すでに自殺を決意していたとう。

 

ところが、Kは家族の顔をみるうちに、自殺して迷惑をかけるより、証拠隠滅して犯行がバレないようにしようと考えを変えた。はまず硫酸と塩酸の濃液を混合して、遺体を溶かしてしまおうと考えた。だが、樽も樽材で出来ているため溶けてしまう。そこで重クロム酸ソーダ液で樽が溶けないぎりぎりまで硫酸の濃度を下げることを考えた。Kにとって幸いなことに、研究所にはそうした薬品はいくらでもあったのだ。

 

 

うやって調合した溶液で遺体の肉を溶かし、第段階として残った骨を塩酸と硫酸の混合液で完全溶解するとこにした。そうすると、樽も破損するだろうから、「実験に失敗した」という理由で焼却処分しようと考えた。翌午前30分頃、は「実験中で、どうしても工場に行かなくてはならなくなった」と家族に告げ、研究所に向かった。時過ぎには会社に着いたが、顔見知りの守衛怪しまなかった。

 

研究室では重クロム酸ソーダと水を樽の中に入れ、続いて96%の濃硫酸を混ぜたが、白い煙がもうもうと発生した。その煙を見た守衛が『火事ではないか』とあわてて飛んできたが、は「調合の失敗だ」とって押し帰した。その後、朝まで室内の血痕を念入りに洗い落とした。午前時半頃、助手が出勤してきて、樽から噴出している白い煙を見て不思議がったが、は適当にごまかして、縄で樽を縛った。

 

塩酸が手元になかったため、近くの商店に注文。午後時頃、塩酸が届くが、はなぜか証拠隠滅を断念し、自殺の決意をした。午後20分頃会社を出て、家族と家で夕食をした後、所持していた青酸カリを持って上野のホテルに向かった。そこでウイスキーを飲んで通の遺書と事件の経過書などを書いた。翌朝、出勤して2階事務室を訪れたが、青酸カリを飲めないうちに眠ってしまったらしい。

 

Kの供述には不審な点がいくつもあった。まず殺害は酒を飲んでいるうちの衝動的なものだったと言うが、最初から殺害を狙ってさんに酒を誘った可能性が強い。それは塩酸を注文したのが殺害後ではなく、殺害前である28日午後1時頃だったからである。また証拠隠滅は一旦帰宅してから考えたとしているが、Sさんを殺害して会社を出る時になぜか、溶けない眼鏡などを持ち出しているなど辻褄が合わない。

 

こうした点について、では殺害の動機はなんだったのかということになるが、詳しいことは判明していない。公判ではの弁護人は精神鑑定を要求したが、結果は「特に異常は認められず、責任能力に問題はないというものだった。その後、世田谷区の松沢病院の精神科に移されたが、1959月、東京地方裁判所は懲役年を言い渡している。被告側と検察側の双方が控訴しなかったため刑は確定した。

 

東京大学理学部を卒業した後、日本皮革の技術研究員として採用された。いわゆるエリート研究員であった。当時の日本皮革製革の世界的権威だったカナダのベルーガン博士を招聘していたは英語力、技術力が同僚技師と比べてもを抜いていたことから、ベルーガン博士から寵愛を受け、先輩同僚技師から疎まれる関係となった。この事件を起こす前には完全に職場で浮いた存在になっていた

 

そんな状況で、SさんだけはKを他技師との不和を解消しようと話相手になっていた。さんは東京物理学校卒業し、入社13年という中堅技師だった。温和な人柄で、よくを誘って飲みに出かけたり、江戸川区の自宅に誘うということがあったが、には自分を嫌う先輩技師たちの急先鋒に映っていた最後に意外Kの量刑が軽かったのは泥酔した上での殺人とう点が考慮されたものと見られる。