根っからの悪党だった武藤恵喜

 

武藤恵喜(52)は人生の半分近くの23年10か月間を刑務所で過ごしてきた。詐欺や窃盗などの罪がほとんどだったが、1983年2月5日、当時32歳だった武藤は「旅館の女将を口論の末に殺害」するという凶悪事件を起こして15年服役したこともあった。2002年1月14日に5度目の服役を終えて出所した武藤は相変わらずスナックや居酒屋で無銭飲食や窃盗をくり返していた。3月14日、所持金が尽きた武藤は、いつものようにスナックで売上金などを盗もうと考えた。  

 

武藤は店の人を信用させるための偽の名刺を作り、盗みを実行するのに適当な飲食店を物色していた。人が少ないところがいいと考えた武藤は名古屋市中区栄4丁目の雑居ビル3階にあるスナック「パティオ」に入ることを決めた。現場ビルは「女子大小路」「栄ウォーク街」と呼ばれる名古屋市中心部繁華街の一角に位置する地下1階、地上5階建てのビルで、10軒ほどの飲食店やスナックが入居していた。スナック「パティオ」は千葉春江さん(61)がひとりで営業していた。

 

武藤がパティオに入店したのは午後11時頃で、「店は12時で閉店する」と言われたため「隙を見つけてカネを盗むには時間が足りない」と思い、武藤は店を出ようとした。その時、千葉さんは思い直したのか「時間は気にしなくていい」と武藤を引き留めたので、彼は店内に入った。この店は普段は一見客は入れない方針だったが、不況で売り上げが落ち込んでいたため、一見の武藤を店に招き入れてしまったのだ。武藤は金を盗む隙をうかがうも、千葉さんには全く隙がなかった。  

 

武藤は「他の店を狙った方がいい」と考えるに至った。武藤は千葉さんにタバコを買ってきて欲しいと頼み、その隙に逃げようと考えたが、彼女は適当に流して腰を上げなかった。武藤が「仲間を迎えに行ってくる」と表へ出ても、後をつけてきた千葉さんに引き戻された。同じ階でスナックを経営する別の女性によると、千葉さんは事件直前、「客が少ないから閉店しようか」などと漏らしており、いつもは深夜0時に閉店することがほとんどだったが、事件が起きた日は珍しく遅かったという。  

 

午前3時頃、千葉さんが武藤の隣に腰掛け、「うちは本当は一見さんは入れない」と言い始めた。この調子ではカネを盗ることも店から逃げることもできず、それどころか無銭飲食で捕まってしまう。刑務所戻りになることを恐れた武藤は強盗をすること決意し、千葉さんを椅子ごと後方に引き倒した。床に仰向けに転倒した千葉さんは「初めからおかしいと思っていた!」と大声で叫んで抵抗した。武藤は手で千葉さんの口を塞いだまま立たせたが、その手を思い切り噛みつかれた。  

 

思わず手を離すと、千葉さんは再び大声で叫び始めた。焦った武藤は千葉さんの背後から首に左腕を回し首を絞めた。1分間ほどすると千葉さんは抵抗もできなくなり、おとなしくなった。武藤は千葉さんを床に寝かせ、カラオケのマイクコードで首を再び強く絞め付けて殺害した。その後、武藤は証拠隠滅を図るため、グラスやカウンターなど手で触れたところをおしぼりで拭き取った。それからカウンター内側にポシェットを見つけ、入っていた約8000円を上着のポケットにしまった。  

 

武藤は千葉さんが猥褻目的で殺されたように偽装するため、遺体のスカートをまくり上げ、下着を途中まで引き下ろした。そして、指紋を残さないようタオルでドアの取っ手をつかみ、店を出た。千葉さんの内縁の夫は午前3時頃、妻の帰りが遅いのを心配して携帯に電話にしたが、応答はなかった。夫は午前7時半頃、スナックが入居するビルの管理者に連絡。ビル管理者の長女が午前8時40分頃に合鍵で店内に入り、千葉さんが倒れているのを発見し、110番通報した。

 

事件があった付近の街並み

 

遺体の首にコードが巻かれていたことから、愛知県警中警察署は殺人事件として捜査を開始した。司法解剖の結果、死因は首を絞められたことによる窒息死、死亡推定時刻は午前3時頃から午前8時半までの間であると判明した。店内には、使用済みグラスが2個あったが、指紋は検出されなかった。愛知県警は「犯人が接客中の女性を襲い、犯行後にグラスの指紋を拭き取った」とみて捜査。店は代金を振り込む会員制で、現金払いの客は少なく、レジはなかった。  

 

事件当日の午後8時30分~午後11時45分頃、武藤は名古屋市熱田区の居酒屋で無銭飲食したうえ、経営者の所持金5万9千円を窃取した。翌15日には熱田区のスナックで、女性経営者が別の客を見送るために店外に出た隙に物色していたところを経営者に見つかってもみ合いになった。この時、帰ろうとしていた客が騒ぎに気付いた戻ってきたため、武藤は財布の入った上着を脱ぎ捨てて逃走した。このスナックでの事件では、ビール瓶に指紋が残っていた。

 

このビール瓶に残っていた指紋をデータベースで照合すると、武藤が浮上した。武藤は過去に類似性の高い殺人や、窃盗事件を起こしていたことから、直ちに愛知県警は指名手配して、その行方を追った。翌16日午後4時30分頃、名鉄金山駅付近を捜索していた捜査員が路上をひとりで歩いている武藤を発見し、愛知県警中署に任意同行を求めた。その際、武藤の所持金は僅か10円だった。その他に無銭飲食に使うための偽と思われる名刺を数種類持っていた。

 

愛知県警の捜査員は取り調べで、スナック「パティオ」における殺人事件についても武藤の関与を厳しく追及した。そうしたところ、武藤は「カネを奪う目的で、客を装って店内に入ったが、最終的に口論となってしまったことから、経営者の女性を殺害した」と、あっさりと供述した。この供述を受けて、愛知県警は武藤を直ちに強盗殺人容疑で逮捕している。20002年4月5日、そして名古屋地方検察庁は被疑者となった武藤を強盗殺人容疑で名古屋地方裁判所に起訴した。

 

第一審初公判は200228日、名古屋地方裁判所で開かれた。罪状認否で武藤恵喜被告は起訴事実を認めた。取り調べでは強盗殺人について否認していたが、「本当は入店した時点からそうしようと思っていた」と述べた。検察は冒頭陳述で「被告は本事件直前にもスナックなどで、約30件の窃盗をくり返していた。被告は被害者を殺害した際、強盗目的を隠蔽ため、被害者の着衣を乱すことで性的暴行目的の犯行に見せかける偽装工作をした」と主張した。

 

開廷から約20分が経過した、被害者の内縁の夫が突然立ち上がり、「てめえ、この馬鹿野郎俺が殺してやる」と叫んだ。そして柵から身を乗り出し、武藤被告に背後から襲い掛かり、左顔面背中に殴りかかった。夫はすぐに刑務官によって引き離された後、裁判長に退廷を命じられた。この騒ぎにより公判は約分間中断したが、武藤被告は公判再開後も動揺した様子はなかった。(この内縁の夫は武藤被告に怪我がなかったことから、不起訴処分になっている)

 

200210日の第回公判における被告人質問で、武藤被告は事前に弁護人とまったく相談することもなく、それまでと一転して「被害者を殺害した後にカネを奪うことを考えた」などと主張し、強盗殺人容疑を否定するようになった200319日の論告求刑公判で、検察は武藤被告に死刑を求刑した。検察は「武藤被告は酷似する手段で殺人事件で服役した前科があり、更生の機会を与えられながら、反省することもなく再犯した」と求刑理由を述べた。

 

弁護側は最終弁論で「大声を出して抵抗する被害者を黙らせようと首を絞めたが、この時点では金品を奪い取る決意はなかった」として殺人窃盗などの併合罪が妥当と主張、量刑選択においては死刑・無期懲役の適応を回避し、有期懲役刑に留めるよう主張した。この頃、武藤は面会に訪れ続けていた牧師に「(懲役刑で)岐阜刑務所に入ると思います。20年近い務めに入ることは間違いないと思っています」と語っており、死刑になることは想定していなかったようだ

 

200315日に判決公判が開かれ、名古屋地裁は武藤被告に無期懲役判決を言い渡した。裁判長は判決理由を述べるなかで、「金品を強取する目的で被害者を殺害した」と検察側の主張を認定、強盗殺人を否定した武藤被告の主張を退けた。そのうえで、「強盗殺人罪の成立を否定する態度、1983年の殺人前科など、さまざまな情状を吟味すれば武藤被告は反省悔悟の情に乏しい。再犯の可能性を否定し難く、極刑適用も考えられる」と断罪した

 

一方で、裁判長「被告は入店した時無銭飲食と売上金の窃盗目的はあったが、検察側が主張するように当初から強盗殺人の犯意があったわけではなかった」として、犯行の計画性については否定。その理由として「武藤被告は窃盗などを諦めて逃走しようとしたが、女性に店の扉を施錠されるなどして失敗、『女性を殺害して売上金を奪って逃走するほかない』と心理的に追い詰められた。現場のマイクコードで首を絞めた手口からは計画性は認められない」と説明した。

 

そして、裁判長被告の命を奪う究極の刑罰に決めるには疑いが残る。被告には、終生贖罪に当たらせることが相当である判断する」として、検察が求める死刑を退けている。この判決に、被告側検察側ともに量刑不服として、名古屋高裁に双方が控訴した。判決後、武藤被告は面会に訪れていた牧師宛の手紙で「万が一の死刑判決を恐れてはいましたが、これでもう少し生き永らえることができそうです」と、判決直前の不安判決直後の安堵の心情を綴っている。

 

控訴審では新たな国選弁護人が就任し、「強盗殺人の事実関係は争わず、反省の態度を示す」という方針に変わった。 武藤被告は公判直前、被害者の内縁の夫に謝罪の手紙を送った。弁護側は、この手紙を贖罪の心の証と説明した。また、武藤被告が獄中から牧師に送った「死んで償いたい」と記された手紙を証拠提出。そして「被告に計画性はなく、被害者を静かにるために首を絞めた。逮捕後には贖罪の気持ちを深めており、有期懲役刑が相当」と主張した。

 

一方検察は被害者遺族の武藤被告死刑を望む思い”という厳しい処罰感情を文書にまとめて弁護側に対抗している。さらに、検察は「武藤被告は1983年にも手口の似た殺人事件を起こした前科があったことから今回の犯行現場となったスナックパティオ”への入店時点でも既に強盗殺人の犯意があった」として、死刑を適用するよう強く求めた。2004日に判決公判が開かれ、名古屋高裁は第一審の無期懲役判決を破棄して被告死刑を言い渡した。

 

名古屋高裁は判決理由で、1983年の殺人の前科を重視、出所後も無銭飲食などをくり返しており、「故意に人命を奪ったのがこれで回目ということを留意せざるを得ない」と指摘したうえで、「追い詰められたのは自業自得であり、無銭飲食売上金窃盗などをくり返していれば、いずれは起こるべくして起きた。殺人前科による長期の服役後に更生機会を与えられたにもかかわらず、その後も同様の生活を続けた末に起こした事件であり、極刑は免れられない」と断罪した。

 

2004月、武藤被告についていた控訴審の国選弁護人が体調を崩し、出廷できなくなったため、上告審では別の国選弁護人が就任し、交代した。2007日、最高裁で上告審口頭弁論公判が開かれ、結審した。弁護側は「殺害された被害者がひとりの事件であり、死刑が適応されるのは許されない」と主張し、控訴審の死刑判決の破棄を訴えた。一方、検察は「被告刑事責任は極めて重い」として、武藤被告・弁護側の上告を棄却するよう求めた。

 

200722日に判決公判が開かれ、最高裁は控訴審の死刑判決を支持し、武藤被告の上告を棄却した。裁判長は「強固な殺意に基づく冷酷な犯行であり、死刑はやむを得ない」と述べ、武藤被告が過去に、旅館の女性経営者を今回と同様の方法で殺害し、金品を盗むなどした前科があることにもふれ、「刑事責任は重大で、死刑とした二審の判断は、やむを得ないものとして是認せざるを得ない」と結論づけた。この判決により、武藤被告の死刑が確定した。  

 

武藤恵喜は195012日、長野県須坂市の青果店を営む実家で人兄弟の次男として生まれた。青果店は武藤が中学校へ進む前、母親の病気をきっかけに廃業となった。その後、父親は鉄工所働くようになった。武藤は快活な少年だった。口達者でよく人を笑わせたが、虚言癖があり、すぐバレる嘘をついた。寿司屋に偽の出前を頼んだり、開く予定のない数十人の宴会を予約するなどの悪さをして、父親に叱られては「もう、しません」と涙ながらに謝っていたという。

 

武藤は中学卒業後に実家を離れ、住まいや職を転々とした。20歳代半ばからは食い逃げや窃盗で刑務所を出たり入ったりするようになる。32歳の頃、武藤は長野県諏訪市で最初の殺人事件を起こした。1983日昼過ぎ、武藤は宿泊していた旅館、「テレビの映りが悪い」と旅館の女将(64)に申し出ると「文句は代金を払ってから言って」と返されたために逆上、女将を突き倒した。女将は近くにあった靴べらを振り回して抵抗したが、武藤は女将の首を絞めた。

 

女将はぐったりして抵抗しなくなったが、武藤は追い打ちをかけるように電気コタツのコードで首を絞め、女将を殺害してしまう。その後、女将遺体を押し入れに押し込み、現金万円と預金通帳を盗んで逃走した日になって、女将の養子から長野県警・諏訪署に「継母が行方不明になった」と届け出があったため、捜査官が旅館内を捜索したところ、殺害された遺体を発見、事件が発覚した。長野県警は事件発生当時から、犯人は宿泊客の可能性が高いとみていた。

 

この事件から2週間後の1983年219日、武藤は東京都台東区浅草の喫茶店にいたところを、諏訪署の捜査員に詐欺容疑(無銭飲食)で逮捕された。この時、武藤の所持金はわずか39円しかなかった。その後、諏訪署に連行された武藤は、翌20日、女将の殺害について容疑を認めたため、殺人・死体遺棄容疑でも逮捕。19831028日、武藤は殺人・窃盗罪などで、長野地方裁判所から懲役15年(求刑懲役20年)の判決を受け、岐阜刑務所に服役した。

 

死刑確定後、武藤は死刑廃止論者の弁護士に「死刑はあった方がいい」と言い、続けて「加害者は一日も早く忘れたいが、遺族は一生忘れられない。俺の死刑のボタンは遺族に押させてやってくれ」と話したという。その後、2008年12月に恩赦出願したが、2010月に請求棄却。2010月、2度目の恩赦出願するも、2012月に棄却。それから約か月後の201321日、収監先の名古屋拘置所で、武藤死刑囚の死刑が執行された。享年63歳だった。