「甘粕事件」は関東大震災直後の1923年(大正12年)9月16日、アナキスト(無政府主義者)である大杉栄と内縁の妻の伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一(6)の3名が憲兵隊特高課に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された事件である。軍法会議の結果、甘粕正彦と曹長の森慶次郎ら5名の犯行と断定されたが、憲兵隊の組織的関与は否定された。戒厳令下の不法弾圧事件である。

関東大震災で東京や神奈川が混乱に陥るとして戒厳令が発せられていたさなかの1923年9月16日、大杉栄は内縁の妻である伊藤野枝を連れ、鶴見区三笠園に住居があった辻潤(伊藤の前夫)を見舞ったが、辻が留守であったので、近くの神奈川県橘樹郡鶴見町に住む実弟の大杉勇宅を訪問した。偶然、大杉の末妹あやめとその息子の橘宗一が滞在していて、宗一が「東京の焼跡を見たい」というので、同行して東京に戻ることになった。

夕刻に自宅付近に帰ってくるが、伊藤が果物を買っていると、張り込み中の憲兵隊に強引に連行され、淀橋警察署から自動車で憲兵司令部に連れて行かれて消息を絶った。行方不明になった大杉を友人で読売新聞記者である安成二郎が探すが、見つからずに事件性を直観。宗一は大杉の末妹あやめが貿易商の夫と米国で産んだ子供で米国籍があり、家人は警察に行く前に米国大使館に駆け込んでこれを伝え、その後に警察へ捜索願を出した。

警視庁は捜索願を受け調べると、淀橋警察署が憲兵隊による検束を報告した。そこで警視庁が憲兵隊に問い合わせると、憲兵はすでに帰したと返答。警視庁は行方不明の大杉が何か良からぬ計画でも行っているのではないかと思い、血眼で行方を捜したとされる。大杉はアナキストの大者であり、戒厳令が解除され新聞の報道規制が解かれると、18日の報知新聞の夕刊で「大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた」という記事が報じられた。

 


警視庁官房主事の正力松太は「陸軍が何かやる」との情報を得ていたが、沈黙していた。だが、事件が新聞に出たことから事態を憂慮し、警視総監の湯淺倉平に相談。湯淺総監は後藤新平内相に報告し、後藤は自分では対処できないので総理に報告するように指示した。湯淺は総理大臣の山本権兵衛に会って報告した。山本首相が田中義一陸相に聞くと「知らん」と答え、戒厳司令官の福田雅太郎に問い質しても分からず、憲兵隊の捜査が開始された。

すると、内部の犯行が明らかになった。田中陸相が改めて憲兵司令官小泉六一を呼んで問いただすと、小泉は甘粕の犯行を認めた上で賛美したため田中は小泉に謹慎を命じた。9月19日、甘粕と森が衛戍監獄に収監された。また古井戸から遺体が引き上げられた。また朝日新聞記者は警察から情報を入手した。9月20日、「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の一報を読売新聞と時事新報が号外で発し、大阪朝日新聞はこの日は2度号外を出した。

時事新報は記者を憲兵隊本部に張り込ませ、大杉だけではなく伊藤野枝と子供が殺されたことや、遺体が遺棄された現場の井戸も確認した。これらの経過中に、米国大使館は自国民である宗一が命の危険に瀕しているとみて、日本政府に抗議がすると共に、宗一の身辺保護と事態の解明を図るよう求めて来ていた。日本政府の閣議では、既に国際問題化し、複数の新聞社が事件の情報を掴んでいる以上、揉み消しは不可能との結論に至ったとされる。

軍は突如として9月20日付で、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長が「職務上不法行為」を行ったとして軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官も更迭、憲兵司令官小泉六一少将と東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分とすると発表。また同時に本件に関する新聞記事を差し止める情報統制を決定した。以後、新聞各紙は核心部分をすべて○○の伏字として事件を報じた。

新聞各社の報道は統制されたが、情報は各社に電話で拡散したことから、検閲を掻い潜った九州日報は21日にも号外を出している。戒厳令下で不眠不休で治安の維持に当たっていた軍隊に、世論は普段反軍的な姿勢の者さえも含めて、軍に対して、支持や敬意を表明していたが、突然の司令官更迭について新聞で詳細が報じられないことから、何事が起こったのかと騒然となった。流言飛語が盛んになっていたこともあり、人心不安が一気に高まった。

軍は前日の予審の結果を受けて9月25日に第一師団司令部発表として「甘粕大尉が16日の夜に大杉栄と他2名を某所に連行して殺害した」と公表したが、他2名が誰であるかは公表させなかった。10月8日に記事差し止め処分が解除されると、新聞は他2名が伊藤野枝と橘宗一であることを報じ、日本を騒がせるアナキストであり、「日蔭茶屋事件」で有名になった大杉・伊藤の2人に加え、6歳の子供までも殺されたとあって世間は騒然となった。

9月24日に軍法会議予審があり、事件の概要が明らかにされた。それによると、甘粕大尉らは大震災の混乱に乗じて、アナキストらが政府転覆を図ると憂慮し、アナキストの主要人物の大杉と伊藤の殺害を決め、甘粕大尉と東京憲兵隊本部付の森慶次郎曹長ら(後に4名と判明)が大杉の自宅付近で張り込み、9月16日に大杉らが鶴見から帰宅する途中、3人を麹町憲兵分隊に連行。その際、「子供だけは帰宅させてくれ」という大杉の懇願を無視した。

東京憲兵隊本部で夕食を出したが、大杉と伊藤は食べず、宗一だけが食べた。大杉はナイフを借りて伊藤が持っていた梨をふたりで食べた。午後8時頃、3人は別々の部屋に移された。甘粕は予審調書で大杉と伊藤とを絞め殺したと認め、その様子を以下のように語った。大杉は応接室で森と雑談のような取り調べを受けていたが、入室した甘粕は背後から柔道の締め技で大杉の首を絞め、森は苦しみもがく大杉の足を押さえ、15分ほどで死亡した。

午後9時15分、次に甘粕は階下の隊長室に入れられた伊藤のもとを訪れ、暫く会話して油断させると、同様に絞殺した。後に発見された検死資料で明らかになった激しく執拗な暴行については語らず、公判でも明らかにされなかった。甘粕は最初、「個人の考えで3人全てを殺害した」として、大杉と伊藤との間の子供と誤解した宗一の殺害も認めたが、軍法会議では宗一の死の経緯を調書で省略したことに官選弁護人の塚崎直義が疑念を持って追及した。

特に甘粕の母親が「正彦は子供好きでした。罪咎のない子供を手にかけるなど、あり得ない」と涙ながらに主張したことにより、自白を一部撤回。自分は「子供は殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」と証言を変えて、大杉と伊藤を殺したのは認めたが、子供殺しは自分ではないとした。宗一は連行するために自動車に乗せた最初から甘粕に懐いていた。甘粕は用を足すため、その場を離れ少年の死には立ち会っていないと主張。

粕の供述の変遷により予審が覆され、塚崎弁護士は捜査のやり直しと公判の中止を申請。これを受け陸軍省から宗一殺しの再調査が命令され、10月5日に鴨志田安五郎と本多重雄の2名の憲兵上等兵が宗一を殺したと自首し、6日に平井利一憲兵伍長も伊藤の死に関与したと自首。鴨志田と本多は宗一殺しを認めたが、甘粕と森が「上官の命令だ」と話していたと証言したが、憲兵隊の小泉少将と小山大佐が否定し、軍上層部への追及はなかった。

結局、森曹長が鴨志田に「お前がやれ」と命令したとされ、鴨志田と本多が手を下すことになった。ふたりも子供殺しに躊躇したが、命令に逆らえず、鴨志田が首を絞め、本多が押さえて殺した。森は「甘粕大尉が子供も殺せと命令した」と主張し、自分に命令したのは甘粕であるとした。甘粕は投げ槍な態度で「森が言うのですからその通りです。私は軍人であり、命令しました」と自分が責任を被ると言わんばかりの答弁をして、再び供述を翻した。

甘粕と森は遺体の処分について話し合ったが、構外に運び出すと露見するとして森が難色を示し、本部裏の古井戸に投げ込むこととした。甘粕は3名の着物をハサミで切って裸として菰に包み、古井戸に落とした。衣類は翌17日に別の場所で焼却した。古井戸は何も知らない人足に命じ、馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。動機については、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂を信じていたとされた。

甘粕は「大杉の次は堺利彦と福田狂二を殺す予定だった」と述べた。「最も危険視された無政府主義者の大杉栄が検挙されていないから『やっつけろ』という意見が淀橋署にあり、警察ではできないから憲兵の方でやってくれ」と要請されたと甘粕と森は主張した。だが、淀橋署員らは「記憶にない」と殺害依頼を否定し、真相解明に至らなかった。 また新聞は「宗一殺害理由を伊藤野枝の殺害を目撃したため」と報じたが、公判では取り上げられなかった。

判士の法務官小川關次郎は甘粕の追及に厳しかったが、第1回公判の後、弁護側が被害者と同郷かつ遠縁との理由で忌避申請し、交代させられた。だが、小川の娘である光代は「大杉家の所在地が小川の出生地と近いが、誰からも大杉と遠縁だと聞いたことはない」と証言。この交代は不審感を持たれ、社会主義者の弁護で知られた山崎今朝弥は「小川法務官は大杉君の妹の亭主の兄の妻の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫である」と揶揄した。

その後、代わった告森法務官も遠縁にあること判明したが、交代はなかった。この事件は軍法会議の内容が連日、報道された。亀戸事件・朴烈事件など大震災直後に起こった社会主義者・労働活動家・朝鮮人に対する警察や軍隊による不法拘束や虐殺について世論は2つに割れていたが、甘粕に対しては弁護士の塚崎のもとには鴨志田や本多等の下士を罰するのみで「甘粕を減刑させたら承知せぬぞ」という社会主義者からの脅迫が届いていた。  

 

 

一方で、「甘粕は国士である」との肯定的な評価から「国賊である大杉を処断した甘粕大尉は正当化されるべきであり、彼の減刑を求める」との署名が数十万名分も集まるなど甘粕大尉を支持する声は強かった。また甘粕も命令を受けて行動したのみで真犯人を庇って責任をひとりで被ったのであって、真相は闇の中だという意見も根強くあった。だが、軍法会議は事件の背後関係には立ち入らないまま、11月24日に検察求刑、最終弁論をむかえた。

 

軍法会議は12月8日、殺害を実行および命令したとして甘粕大尉を首謀者と断じて懲役10年、森曹長には同3年、殺害を実行した本多・鴨志田の2名は命令に従ったのみとして無罪、また見張りとして関与した平井伍長は証拠不十分により無罪との判決を下して終了した。甘粕に懲役10年が告げられると、傍聴人の中からは彼の有罪が不満であるとして草履を投げる者や怒号を上げる者があって、一時騒然としたが、本人らは黙して退出した。