クレメンタイン・バーナベトは1894年頃、米・ルイジアナ州セント・マーティンビルで、父レイモンド・バーナベトと母ニーナ・ポーターの間に生まれたと考えられている。クレメンタインにはゼフェリンという名前の兄弟がひとりいたようだ。バーナベトの父親は粗暴な男であったようで家族を虐待していたと言われており、1909年に家族はラファイエットに引っ越した。

 

バーナベトの殺人は1911年2月が最初に発覚した。この事件で裁判を待っている間に、別の殺人事件を起こした。1911年11月、ノーバートとアシマ・ランドールとその4人の子供たちを殺害した。バーナベトの殺人は一貫したパターンがある。彼女はしばしばひとりではなく家族全員を殺害し、斧を使って犠牲者を屠殺したり、首を切り落としたりした。

 

最終的にバーナベトは35人の殺人を自白した。殺害理由について彼女は「ルイジアナ州レイクチャールズにあるキリストの聖化された教会の分派である生贄教会との関係」を説明している。生贄教会の司祭がバーナベトと彼女の友人たちに超自然的な力を与え、当局に見つからないようにする「魔法の袋」(ブードゥー教を参照)を与えられたと主張した。

 

このことがバーナベトを駆り立て、それが本当かどうかを確かめるために最初の殺人を犯すことになった。1912年10月、わずか18歳であったクレメンタイン・バルナベトはアンゴラ州立刑務所で終身刑を宣告された。バーナベトは1913年7月、脱獄を試みたが捕まってしまった。しかし、彼女は1923年8月に仮釈放されたが、その後の行方は記録がない。