1967年4月23日、カザフスタン共和国にあるソ連のバイコヌール宇宙基地では、華々しく有人宇宙飛行船のソユーズ1号が打ち上げられようとしていた。関係者とメディアが賑わう中、かつてソ連の英雄と呼ばれたユーリ・ガガーリンが騒ぎを起こした。ガガーリンはソユーズ1号の予備搭乗員だったが、正規搭乗員のウラジミール・コマロフを押しのけて、自分が搭乗すると宇宙服を着て騒いでいたのだ。

メディアはその様子を冷ややかな目で見ていた。かつて英雄だったガガーリンは、ここ何年も冷飯を食わされる地位に堕ちていた。名をあげたいガガーリンが、自分が搭乗したがっていると思われたのだ。しかし、ガガーリンはメディアが邪推するような安っぽい了見で騒いでいたわけではなかった。ガガーリンは無二の親友であるコマロフの命を救うため、ただ必死にソユーズ1号への搭乗を訴えていたのだ。

ガガーリンは世界で初めて宇宙を有人飛行した人物として知られる。ボストーク3KA-2に搭乗したガガーリンは1961年、大気圏外で地球周回軌道に乗り「地球は青かった」と名言を残した。時のソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフは、ガガーリンを讃えてソ連の英雄になった。歴史に残る大事業を成功させたとソ連の体制を自画自賛し、同時にフルシチョフが押し進めた宇宙開発の正当性を強調した。

ところが、フルシチョフが失脚して、レオニード・ブレジネフが書記長に就任すると、ガガーリンはフルシチョフ派として扱われ冷遇されていた。さらに宇宙からの帰還後に激変した生活環境に適応できなくなったガガーリンは酒に溺れるようになり、自傷行為を起こすまでになっていた。しかし、数年をかけて精神的混乱から立ち直り、飛行指揮官を目指して訓練を再開し、ソユーズ1号の予備搭乗員になった。

1957年、ソ連が世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げと衛星軌道上に衛星を静止させることに成功。人工衛星に望遠鏡を搭載すれば米国をはじめとする西側諸国は軍事情報が常時監視されることになる。また米国は科学技術分野において、ソ連を上回っていると信じ切っていたので、ソ連に出し抜かれたことに大きなショックを受けた。西側は軽いパニックに陥り、スプートニクショックと呼ばれた。

米国は当時、貧困対策を推進していたが、政策を転換し宇宙開発に膨大な予算を投入。だが、海軍ロケットの爆発事故などの失敗があり、エクスプローラー1号による有人飛行の成功を見るのは、スプートニク1号の成功から遅れること4か月後だった。ソ連は1963年、ボストーク6号でワレンチナ・テレシコワが女性として初めて宇宙で地球を周回することに成功し、さらにボスホート2号でふたり乗りの宇宙船で遊泳に成功した。


米国はアポロ計画で月を目指しており、ソ連はそれに対抗するために次世代の宇宙船ソユーズを開発していた。ソ連は猛追する米国を引き離すため、ソユーズの成功は絶対に必要だった。ソ連はソユーズの無人宇宙船コスモス133号のテストを行ったが、システムトラブルが発生し、制御不能のまま墜落。その後継機は発射時に爆発を起こし、次の後継機のコスモス140号も墜落し、大気圏で燃え尽きている。    

 

ソユーズ1号

 

しかし、米国との競争に焦るソ連は、この結果を楽観的に評価して有人飛行船のソユーズ1号を製作していている。ソユーズの搭乗員となったウラジミール・コマロフと、親友のガガーリンはソユーズが致命的な問題を抱えていると感じ、徹底的に検証を行っている。そして、彼らが見つけた欠陥は200箇所以上に上り、生還が不可能な宇宙船だと分かり、ガガーリンはソユーズ打ち上げを中止させようとした。

しかし、政治局からは強い圧力がかかっていた。ガガーリンは数々の欠陥を報告書にまとめて上訴を行っているが、ことごとく無視された。フルシチョフ派のガガーリンが、プレジネフ体制に異を唱えていると思われた面もあったが、ガガーリンの訴えを真剣に受け止めた人達もいた。しかし、ガガーリンの報告書を上にあげようとした人達は、降格や左遷、シベリアなど遠隔地に異動させられてしまった。

報告書を持って奔走するガガーリンに、露骨な買収工作を行う者まで現れた。そこでガガーリンは自分がソユーズに乗ると言い出した。世界に有名で国民的英雄の自分を欠陥機に乗せて失敗する姿を見せるわけにはいかないだろうと考えたのだ。だが、コマロフはソユーズに乗ることを志願する。もはや誰が乗るかは関係なく、政治局はソユーズの打ち上げを予定通りに行う方針を変更しないと知っていた。

自分の代わりに親友のガガーリンを死なせるわけにいかないと、コマロフは搭乗を志願したのだ。ガガーリンは最後までコマノフの搭乗に猛反対した。ソ連の政治局は、ロシア革命50周年のメーデーにソユーズの打ち上げを成功させたかった。コマロフは政府高官から激励の電話を受けてソユーズに搭乗した。その高官は電話口で泣いていたと言う。彼もソユーズが失敗することを確信していたひとりだった。

ソユーズの打ち上げに関わる大半の技術者は、このミッションが失敗に終わることを理解していた。しかし、それを口にしたり、抗議することは職を解かれて逮捕される危険があったので、誰もが沈黙するしかなかった。コマロフが搭乗する直前に、ガガーリンが「俺を乗せろ!」と大騒動を起こしていたが、コマロフの意思は変わることはなかった。ソユーズは無事に打ち上げられ、衛星軌道に達した。

ソユーズが衛星軌道に乗ると、コマロフは2枚の太陽光パネルを広げようと試みたが、1枚が開かなかった。しかし、これはコマロフの想定内のトラブルだった。ソユーズは電力不足のまま、軌道周回を始めていた。暫くすると、自動姿勢制御装置が機能停止。手動運転に切り替えるが、それも故障した。コマロフは予想していたことが次々に起こる中、それでも必死にソユーズをコントロールしようとしていた。

ソユーズがほぼ制御不能になり、管制官はミッション中止を指示し、大気圏突入の準備を開始した。管制室にコマロフの妻ワレンチナが呼ばれた。民間人が管制室に入ることは許されていなかったが、基地の職員らが機転を利かせていたのだ。激しい振動と揺れに耐えながら、コマロフは妻に別れを告げた。だが、管制官は諦めてはいなかった。軌道を離れるタイミングと角度さえ合えば、帰還できるはずだった。

逆推進エンジンを起動して、ソユーズは大気圏に突入して地球への降下を開始した。大気圏内に入れば、パラシュートと逆推進エンジンを使って帰還できる。だが、そのパラシュートが開かないことをコマロフは知っていた。予備のパラシュートを手動で動かしたが、それも開かないことを彼は事前の調査で知っていた。逆推進エンジンも動起せず、コマロフの乗るソユーズは減速することなく地面に激突した。

 

炭化して肉塊になったウラジミール・コマロフ

 

激突したソユーズは爆発し、炎を上げて燃えあがった。ソユーズの衝撃的な事故はソ連共産党に衝撃を与え、ソユーズ計画を延期させることになった。愚かな政治判断により打ち上げを強行したにも関わらず、ソユーズの開発チームの何人もが責任を取らされた。これによりソ連は優秀な宇宙飛行士だけでなく、優秀な技術者も流出することになり、米国の月面着陸を目指すアポロ計画に遅れを取るようになった。  

 

1969年に米国のアポロ11号が月面に到着し、人類が初めて月面を歩くことに成功すると、ソ連は月面着陸の無謀さや無意味さを強調するコメントを出して、アポロ計画そのものを否定した。これによって事実上、宇宙開発競争は米国の勝利に終わり、ソ連のみならず米国も宇宙開発を縮小していった。コマロフをはじめ、米ソ両国に何人もの犠牲者を出した狂乱の宇宙開発競争は70年代に入ると終焉を迎えた。