英・リバプールに在住する保険外交員であるウィリアム・ハーバート・ウォーレス(52)はごく平凡な男だった。チェスが得意なほかには、これといった取り柄がなく、17年間連れ添った妻のジュリア(69)と2人きりで平凡な毎日を送っていた。ウォーレス夫妻の間には、子供はいなく、そして親友と呼べる者もいなかった。ウォーレスは傍から見れば極めて退屈な人物だった。そんな彼が、或る日を境に荒波に晒されることとなる。

 

1931年1月19日午後7時15分頃、ウォーレスが通うチェス・クラブの会長のサミュエル・ピート宛に「ウォーレスさんは来ていますか?」という一本の電話があった。ピートが「まだ今日は来ていません。後で架け直していただけませんか?」と答えると、彼は「それが忙しいので難しいのです。今日は娘の21回目の誕生日なんですよ」と答え、続けて「それでですね、ウォーレスさんに伝言してほしいのですが…」と依頼してきた。

 

娘の誕生日と聞いたピート会長は電話の主の希望を快諾した。電話の主は「ウォーレスさんと保険について相談したいことがありますので、明日の夜7時30分にメンラブ・ガーデンズ東25番地にまでご足労願います。私がその家の主のR・M・クワルトローです」と話した。ピート会長は相手の話した内容を復唱し、間違いがないことを相手にも確認してから「承知しました。ウォーレスに必ず伝えます」と述べて、電話を切った。

 

間もなく現れたウォーレスには「R・M・クワルトロー」という名に覚えがなかったが、契約が取れそうなこともあったので行ってみることにした。明晩はチェスが打てないことが残念に思ったが、「仕事が第一だ」と思い直した。翌日、午後6時頃に帰宅したウォーレスは夕食を摂り、6時45分に家を出た。ジュリアは風邪気味だったが、裏の門まで見送りに出た。「気をつけていってらっしゃい」 これがジュリアとの今生の別れとなった。

 

ウォーレスは近くの停留所で路面電車に乗り「メンラブ・ガーデンズ東に行きたいんだが、どこで乗り換えたらいいんだね?」と車掌に尋ねた。車掌は怪訝な表情を浮かべて「東? 東に停留所はありませんねえ、西にならありますよ」と答えた。ウォーレスはメンラブ・ガーデンズ東まで歩いて行くことにした。彼は「余裕を持って出て来てよかった」と安堵した。ところが、歩けど行けども「メンラブ・ガーデンズ東」には辿り着かなかった。

 

気がついたら約束である7時30分を過ぎていた。ウォーレスは「ひょっとしたらピート会長が“東”と“西”を聞き間違えたのかも知れない」と考え、念のために「メンラブ・ガーデンズ西25番地」に電話を架けてみたが、その電話に出た人物は「クワルトローなんて人はここにはいなし、知りません」という連れない答えを返すと、迷惑そうに電話を切った。とうとうウォーレスは途方に暮れてしまった。すると、運良く警官が通りかかった。

 

ウォーレスは、これ幸と警官を呼び止めると「メンラブ・ガーデンズの東に行きたいんですが」と尋ねた。すると、その警官は路面電車の車掌と同じように「東…?」と訝しんで、 「東なんてありませんよ。メンラブ・ガーデンズの北と南と西ならありますが、東はありません」という。狐につままれたような気分になったウォーレスは、念のために近くの新聞販売店に駆け込んで電話帳を借りて調べたが、やはり「東」は存在していなかった。

 

さらにウォーレスは販売店の女主人に、新聞の配達先の名簿の中に“東”がないかどうか執拗に調べてくれと頼んだが、もはやあるはずもなかった。ようやく諦めたウォーレスが自宅に戻ったのは午後8時45分頃だった。居間の床は一面の血の海で、その真ん中に妻のジュリアがうつ伏せに倒れていた。彼女の頭部からは脳漿が飛び散っていた。遺体の下には、どういうわけかウォーレスが使用しているレインコートが敷かれていた。

 

 

通報を受けて、駆けつけた警官たちが気になったのは、ウォーレスが妙に落ち着いていることだった。淡々と室内を調べて、棚に置かれた金庫の中から4ポンドほど盗まれていることを報告した。警官らは「たった今、妻が殺されたというのに、これほど冷静でいられるだろうか?」と疑念を抱いた。ウォーレスの弁護をすれば、余りのショックで茫然自失の状態に陥っていたのだろう。そもそも日頃から感情を露にするような性格でもない。

 

しかし、そのことが警官の疑惑の視線をウォーレスに向けさせることになった。そして、警察の調べでは外部から侵入した形跡は見られなかった。つまり、犯人はジュリアが招き入れた者か、もしくは最初から家の中にいた者ということになる。午後10時頃から行われた検視の結果、死亡推定時刻は午後6時頃とされた。つまり、ウォーレスが出かける前である。かくして2週間後の2月2日、ウォーレスは妻殺しの容疑で逮捕された。

 

「ウォーレスは妻を殺害するために綿密な計画を立てた。まず、前日にクワルトローを名乗ってチェス・クラブに電話をかけた。そして、ありもしない住所を告げて、これを探すことでアリバイを作り上げた。だが、ウォーレスが家を出た時には既に妻は殺されていた。このことは死亡推定時刻が午後6時であるからも明らかである。遺体の下に彼のレインコートがあったのは血しぶきを浴びないために彼が着ていたからだ」と検察は見立てた。

 

しかし、弁護側の証人として裁判に出廷した牛乳配達のアラン・クローズ(14)が次のように証言した。「ウォーレスさんの家に6時25分頃に配達に行きました。牛乳は奥さんに直接手渡しました。その時、僕が咳をすると、奥さん親切に『風邪が流行っているから気をつけてね。早く家に帰るのよ』と気遣ってくれました」 つまり、少なくとも6時25分まではジュリアは生きていたわけであり、死亡推定時刻が誤りであることが証明された。

 

以上のことを前提に、判事は被告に有利な内容の陪審員説示を行った。しかし、評決は有罪であり、ウォーレスは死刑を宣告された。ところが、控訴審では一転して弁護側の主張が認められ、原審は破棄された。これでウォーレスは晴れて無罪を勝ち取り、放免となったのである。だが、ウォーレスの生活は元通りというわけには行かなかった。職場に復帰を果たしたものの内勤を命じられ、世間からの心ない誹謗中傷に悩まされた。

 

心身共に疲れ果てたウォーレスは1933年2月26日に腎臓疾患を悪化させて死亡した。無罪判決を受けて2年も経っていなかった。ウォーレスは本当に無実だったのだろうか。確かに「メンラブ・ガーデンズ東25番地」を求めて執拗なほど尋ねて回った彼の行動は如何にも怪しい。アリバイ工作だと思われても仕方がない。しかし、ウォーレスには妻を殺す動機がないのだ。残された日記からも何ひとつ疾しいことは見つからなかった。

 

おそらくウォーレスが犯人ではないだろう。では、ウォーレスが犯人ではないとして、真犯人は誰なのだろう。これは、小説家のコリン・ウィルソンが著書「殺人の迷宮」の中でその名を明かしている。ゴードン・パリーという前科者である。ウォーレスも彼が犯人であることを疑っていた。自動車のセールスマンをしていた彼はウォーレス家を訪問したことがあり、ジュリアから信頼されていた。しかし、ウォーレスは彼のことを宜しく思っていなかったという。

 

事実、パリーは窃盗や横領、強制猥褻で何度も逮捕されたことのある前科者で、事件当時は多額の借金を抱えていた。そのアリバイは出鱈目で、事件直後、彼の車の中に血まみれの手袋があったことが知人に目撃されている。それをもってウィルソンはパリーが真犯人だと断じたが、些か早計に過ぎるだろう。確かにパリーは怪しいが、事件と彼を結びつける決定的な証拠はない。結局、真相は依然として謎のままという他ないだろう。

 

このウォーレスの事件は裁判において一旦、彼は有罪判決を受けたが、刑事公訴裁判所によって有罪を覆された。これは、上訴が証拠の再調査のち許された、英国の法律歴史において最初の事例であった。この事件は、さまざまな人々が調べ、大部分の人々はウォーレスの無実を確信した。この事件は奇妙な背景とともに、長い間、推理の主題であり続け、多くの書籍を生み、古典的な謀殺事件ミステリーの原点と見なされている。