「栃木実父殺人事件」は1968年10月5日に起きた。栃木県矢坂市で被告人の女性が実父を絞殺し、逮捕された。この事件はいわゆる「親殺し」である尊属殺人であり、その事件の概要がセンセーショナルに報じられた。事件の内容はもちろんだが、その裁判も注目された。裁判において「尊属殺加重規定」を無効とする判決が下されており、法律を「違憲」と判断したからだ。この事件以降、尊属加重規定は適用されておらず、1995年の改正刑法で正式に削除された。
サチは市営住宅に両親と兄弟を合わせて9人で生活していた。そして、14歳のときに父親に強姦された。これは一度どころか、週に2、3度行われており、15年間続いた。初めての時から約1年経ったある日、サチは母親に父親のことを相談した。当然、母親は激怒して父親と諍いになったものの、逆上した父親が母親に刃物を突きつけられたことから家出してしまった。父親のもとに残されたのはサチと兄弟の中の妹ひとりだった。妻が出ていったことで父親の性的虐待は加速した。
毎日のようにサチは性的虐待を受けて、17歳のときに妊娠と出産を経験した。サチはその後、父親との間に5人の子供を出産した。また、そのうちのふたりは生後まもなく亡くなっている。サチは出産だけでなく中絶手術を5回行っており、6回目のときに医師から「これ以上は身体がボロボロになるから」と告げられて、不妊手術が行われた。サチは自分が産んだ子供を育てるために、父親の反対を押し切って印刷工場で働きに出た。やっと、友人も出来て仕事は楽しかったという。
そんなある日に、サチは職場の同僚と交際を始めた。彼はサチより7歳年下で温厚な人物、一緒に駅まで帰って喫茶店でデートをするような日々が続いた。このときサチは29歳になっており、彼女にとっての初恋だった。しかし、サチ自身は父親から逃れられるとは思っておらず、結婚も叶わないと思っていた。ところが、彼はサチに子供がいることを知っても諦めなかった。彼の「幸せにする」という言葉に希望を抱き、サチは勇気を振り絞って父親にプロポーズされたことを伝えた。
だが、それを知った父親は彼氏を「殺す」と脅したため、サチは「仕事を辞めて家にいる」ことを条件に彼氏の安全を約束してもらった。サチの前に現れた希望は父親によって奪われてしまった。彼は職場を辞めたサチを不審に思っていたところ、上司から家に居ることを知らされた。そして、サチも彼に会いに行くために、こっそりと外出しようとしも父親の監視が厳しく、会うことは叶わなかった。父親は彼だけでなく、サチが産んだ子供をも危害を加えると脅し、人質状態になっていた。
この頃になると、サチは「このままでは自分だけじゃなく、子供たちも殺されるかもしれない」と感じるようになっていた。そして、いつものようにサチの元に近寄ってくる父親を浴衣の紐を首に巻いて強く引き絞殺した。また、父親はサチに首を締められている間、無抵抗だったという。願わくば、父親が最後に人の心を取り戻し、贖罪の意味でサチの手にかかったということであってものだ。サチは警察に逮捕、起訴され「栃木実父殺し事件」の被告として裁判を受けることになる。
この事件を担当した弁護士は大貫大八という人物だった。サチは父親に軟禁状態だったことから十分な資金がなく、国選弁護士を予定していたと言われている。ところが、大貫は無報酬で弁護をすることを名乗り出た。これは大貫が事件の真相をある女性から知らされたからだった。当時、栃木実父殺し事件の内容として、サチが父親から度重なる性的虐待を受けていることは報道されていなかった。事件の真相を知った大貫はサチの弁護人を務めることを決断した。
大貫はサチの弁護を無報酬で担当したといわれるが、実際には大貫に事件の真相を知らせた女性が弁護を依頼した際に鞄一杯に詰まったじゃがいもを弁護士報酬として渡している。これは女性が貧しく、弁護料を払えなかったため、代わりに用意したものが、じゃがいもだった。実は大貫に事件の真相を伝えに来たこの女性はサチの母親であった。夫に刃物を突きつけられ脅されて、5人の子供たちを連れて家出した後も、残したサチのことを忘れたわけではなかった。
大貫は事件の裁判で何としてでも実刑を回避し、執行猶予を判決に付けるためにサチを弁護していたが、その志半ばでガンを患って入院することになった。事件の担当弁護人を続けられない状態になったことから、大貫の息子である正一がサチの弁護を引き継ぐことになった。正一も弁護士として活動しており、サチの母親が父親である大八に弁護を依頼しに来たときから事情を十分承知しており、サチの担当弁護人となって、最後まで彼女に寄り添うことになった。
しかし、サチの裁判において実刑を回避することは困難、ほぼ不可能と思われていた。何故なら当時は殺人より罪の重い尊属殺人罪が設けられていた。自己または配偶者の直系尊属を殺した者について、通常の殺人罪とは別に、尊属殺人罪を設けていた。尊属殺人罪が適用された場合、法定刑は死刑または無期懲役に限られる。つまり、尊属殺人罪が適用されたら、執行猶予はない。執行猶予を付けるためには殺人罪を適用させなければならなかった。
ということは、刑法第200条は「法の下の平等」を定めた憲法14条に違反している。刑法第200条は違憲であるという憲法論争をせざるを得ない。刑法第200条か違憲がどうかについての議論は、昭和48年から遡ること約四半世紀、昭和25年にすでに行われており、尊属殺人規定は道徳の乱れの歯止めとして機能している。親孝行の大切さを刑法に顕しておくのはもっともなことである。議論の結果、当時の最高裁大法廷は合憲との判決を下している。
父、大八は尊属殺重罰規定自体を「違憲」として主張し、争っていくことにした。息子、正一は父親から長期間に渡る性的虐待を受けたサチは「心神喪失状態」であり、殺人も「正当防衛」だったと主張した。大八は尊属殺の重罰規定を違憲という主張をメインにし、第一審で無罪判決を勝ち取っている。だが、第二審では無罪判決が破棄されただけでなく、サチにも相当の非があるとされ、第二審は懲役3年6か月の執行猶予の付かない実刑が下された。
第二審が実刑となったことから大貫は上告したが、この頃から体調を崩してしまった。病床に伏せた大貫に代わって、息子の正一がサチの担当弁護人を引き継いだ。裁判は「栃木実父殺人事件」だけでなく、同時期に起きた「秋田県姑殺人未遂事件」、「奈良県養父殺人事件」と合わせて審理が行われ、最高裁判所で違憲立法審査権が行使された。これは尊属殺人の刑罰を定めた刑法200条が憲法に適合しているかの審理を行うというものであった。
結果的に刑法200条は違憲と判断され、サチは懲役2年6か月、執行猶予3年という判決を下された。サチの裁判はこれで終わり、彼女は殺人に関わったと判断されたが、執行猶予付きの判決となった。つまり、サチが受けた性的虐待などを考慮した上で、ある程度の正当防衛も認められたといえる判決だった。その後、サチは執行猶予の判決を受けたため、一般生活を続けることができたはずである。旅館に勤務をして女中として働いたという情報もある。
また、3人の子供たちは様々な理由から施設で暮らすことになったが、サチとは週に1回ほど会って一緒に過ごしていたと伝えられる。「栃木実父殺人事件」ではサチが彼と結婚を決断したことが大きく関わっているが、事件後は別の男性と結婚したという。サチは印刷工場で勤務していた時も含めて、周囲の人々からとても好かれていたという。それだけに、彼女の15年間における性的虐待は非常に残酷で、社会との関わりを大きく阻害していたと言えるのだろう。