佐々木つとむは70年代から80年代にかけて一世を風靡したお笑い芸人で、高校時代から演芸番組に出演、高校中退後の17歳で浅草松竹演芸場の司会に抜擢される。特にモノマネを得意としており、渥美清、高倉健、森進一、田中角栄などの物真似で人気を博した。はたけんじ、団しん也、堺すすむと共に「元祖ものまね四天王」とも呼ばれていた。彼のモノマネ芸で特に人気だったのが、田中角栄、大平正芳らの声を一人4役でこなす「ロッキード麻雀」だった。

 

放送演芸大賞部門賞を2度、受賞するなど芸人として順風満帆の人生を歩んでいた佐々木つとむだった。その一方で、私生活ではギャンブル依存症として知られていた。ギャラをその日のうちにギャンブルで使い切ってしまうこともしばしばで、ポーカーで2000万円を超える借金も抱えていたと言われている。晩年の佐々木に師事していたタレントの神奈月も、借金取立人に神奈月自身の持ち合わせを取られてしまうなど、佐々木の借金にまつわる苦労について話している。

 

佐々木には妻子がいたが、ギャンブルにのめり込んで巨額の借金を作っていたことから、家庭内でのいざこざが絶えなかったと言われる。その挙句の果てに、佐々木は1987年4月頃に妻子と別居している。新宿のポーカーゲーム屋で知り合った中野美沙(39)と同棲を始めた。美沙の背中には、一面には観音の入れ墨があり、周囲からは「一筋縄ではいかない女」と噂されていた。別れるよう忠告する芸人仲間もいたが、佐々木は美沙をかばってウンとは言わなかった。

 

 

美沙は中学を卒業した後、1年ほど工員として働き結婚したが、ほどなく離婚している。その後、下着の輸入販売会社を起業している。これが当たった美沙はフェアレディZを乗り回すなど羽振りが良くなった。美沙は佐々木の借金の一部を肩代わりするなどしていたが、「それでも足りない」と佐々木の金銭の要求は次第にエスカレートしていった。遂には、美沙の貯金を勝手に引き出したり、貴金属類を勝手に換金するなどしたため、ふたりの関係は険悪になっていた。

 

最後の舞台に出た8月30日夜から8月31日未明、美沙が飼っていた犬を佐々木が殴って骨折させたことがきっかけとなり、美沙は佐々木の全身を包丁でメッタ刺しにして殺害した。動機については、佐々木が美沙に対して、「お前は一生俺の金づるだ」と発言したことだという話もある。いずれにせよ犯行は突発的なものだったらしく、事件現場に残された遺書には「私もお父さん(佐々木)のそばに行きます、私がお父さんを殺すなんて夢にも思わなかった」と書かれていた。

 

1987年9月4日、佐々木つとむと連絡を取れないことに不審に思った所属事務所の社長が、佐々木の自宅を訪ねたところ、血の海の中で毛布をかぶった佐々木の遺体を発見した。通報を受けた警察は直ちに現場に駆け付けるとともに、美沙を指名手配し、行方を捜索することになった。美沙は犬を入院させた後消息を絶ち、2日後の9月6日に青森県むつ市大湊の陸奥湾で入水自殺しているのが発見された。近くのホテルからも事件を詫びる遺書が発見された。

 

当時のワイドショーは佐々木が生誕から死に至るまでを放送するなどこのセンセーショナルな事件を連日、大きく報道した。実はこの事件は稲川淳二の怪談「愛人のマンション」という話のモデルにもなっている。その内容は大川興業に所属していたピグモン勝田という芸人が、事件現場となったマンションを格安な家賃で借りて住み始めたところ、心霊現象に悩まされた挙げ句、興行先で事故死したというものである。果たしてどこまで本当なのか、真偽のほどは定かではない。