「城丸君事件」は1984年1月10日、札幌市で発生した男児失踪・死亡事件である。当時9歳の男児・城丸秀徳君が行方不明となり、当時29歳のホステス・工藤加寿子の自宅で人骨となって発見された。しかし、犯人と推定された工藤加寿子は裁判で無罪になった。この事件で最も焦点が当たったのは、状況証拠から見て犯人が明らかにもかかわらず、黙秘権を行使したことで無罪となり、さらに警察を相手取って損害賠償まで勝ち取った点だった。
1984年(昭和59)1月10日9時35分頃、北海道札幌市豊平区に住む城丸隆さんの自宅の電話が鳴った。この時期の北海道地区は、まだ小学校も冬休みのため、自宅にいた城丸隆さんの次男であった秀徳君がその電話を取った。その際、一緒に自宅にいた城丸くんの母親は朝食の支度をし、父親はリビングでくつろいでいた。その時の秀徳君は友達と会話をしているのではなく、時折「はい、はい」と返事をし、大人と会話しているようだった。
秀徳君は、その電話を切ると「出かけてくる」と言い、母親がどこに行くのかを聞くと秀徳君は次のように答えたという。
「ワタナベさんのお母さんが、僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言って、来てくれと言うんだ。函館に行くと言っている。車で来るから道で渡してくれる。それを取りに行く」「100mくらい離れたところに、おばさんが持ってきてくれる」 この秀徳君の話を聞いた父親や、母親、長女(13)、長男(12)も話がよく理解でなかった。
秀徳君は玄関で既に長靴を履き始めていた。母親が用意した防寒具を着て秀徳君は外に出て歩いて行った。そのとき秀徳君の母親は急に不安を覚え、長男に後を追わせたが途中で秀徳君を見失ってしまった。秀徳君の母親と長男は近所を探したが、秀徳君を見つけることができずその日の昼12時30分頃、父親に相談して警察に届けることにした。連絡を受けた警察官が付近を捜索すると、意外にもすぐに秀徳君の目撃者が見つかった。
「二楽荘」というアパートの住人で工藤加寿子という女が秀徳君の最後の目撃者であることが判明した。工藤は秀徳君に「ワタナベさんの家を尋ねられ、隣の家であることを教えた」と答えたが、その後は知らないと供述。警察は公開捜査に切り替えて捜査を行ったが、秀徳君に関する有力な手掛かりは得られなかった。警察は工藤の内偵を続け、1988年6月、彼女が以前に住んでいた嫁ぎ先の(空知)新十津川町の農家の納屋で骨片を発見した。
警察は、この遺骨を秀徳君のものと見ていたが、当時の鑑定技術水準では、骨片の身元を秀徳君とは断定できず、やむなく捜査を打ち切った。警察は殺人の時効も2か月後に迫った1998年11月、再度DNA鑑定を実施し、遺骨は城丸君のものと断定。同月15日、工藤を逮捕した。工藤は殺人罪で札幌地裁に起訴されたが、彼女は黙秘を貫いた。裁判においても、検察官から聞かれた約400の質問に対して全て「答えることはない」と黙秘した。
2001年5月30日、札幌地方裁判所は工藤の嫁ぎ先から見つかった骨が城丸秀徳君であると認定し、その他の証言より、電話で秀徳君を呼び出したのは彼女であるとした。また、多くの状況証拠から秀徳君が工藤の元にいる間、彼女の犯罪的行為によって死亡した疑いが強いと、なんらかの致死行為があったことを認定したものの、殺意があったかどうかは疑いが残ると認定し、工藤に対し殺人罪について無罪という不条理きわまりない判決が下された。
また、傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪は公訴時効が成立していたため、これらの罪で工藤を起訴することはできなかった。裁判で工藤が黙秘権を行使したことについて、札幌地裁判決は「被告人としての権利の行使にすぎず、何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定に不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない」と示した。検察側は控訴し、札幌高等裁判所の門野博裁判長は2002年3月19日、控訴を棄却している。
さらに、門野裁判長は一審における検察官の工藤に対する質問姿勢についても「弁護人が被告人質問をすることに反対していたとしても、検察官が被告人質問を行うことは不当ではないが、実際に被告人質問を行ってみて黙秘することを明確にした被告人に対して、なおも質問を続けたことは被告人の黙秘権を危うくするもので、はなはだ疑問である」と黙秘権保護の見地から批判した。検察側は最高裁への上告を断念。これにより工藤の無罪が確定した。
裁判所は工藤の無罪を言い渡したが、状況証拠はまっ黒である。工藤は事件発生当時、豊平区のアパートに長女(1)と住み、ホステスをしていた。このアパートは城丸家と約100mしか離れていなかった。この時、工藤は700万円以上の負債があり、そのうち636万円の返済を迫られていた。事件当日、小学生が工藤のアパートの階段を秀徳君が上っていく姿を見ている。その夜には、近所の住人は工藤が大きな段ボール箱を抱えて出ていくのを見ている。
さらに工藤には、夫に対する保険金殺人の疑いもあった。ホステスだった工藤加寿子はその後、お見合いで出会った農家を営む和歌寿美雄という男性と1986年(昭和61)に結婚している。工藤食事も作らず、ギャンブル通いに精を出し、遊びに行って1週間以上家を空けることもあったと言われる。専業主婦になった工藤加寿子は夫の稼ぎを当てにし、遊ぶ金も夫に出させていた。そればかりか、夫の貯金2000万円をいつの間にか使い果たしてしまったという。
結婚後暫くして、夫は「嫁に殺されるかもしれない」と自身の義理の兄に漏らしている。結婚して1年が経った1987年12月30日、夫の懸念は現実のものとなった。午前3時頃に突然家から出火し、瞬く間に家中に火が燃え広がった。そして、明け方に火が収まると、焼け跡からは夫の焼死体が発見された。出火時、深夜3時だったが、工藤と娘は外出着とブーツに身を包んで髪もセット済みなど身なりを整え、預金通帳や生命保険証書なども持ち出していた。
さらに、工藤は隣ではなく約300m離れた家まで助けを求めに行っており、切迫した状況にもかかわらず、呼び鈴を鳴らして待つという行動にも違和感もあった。夫から相談を受けていた義理の兄は火事の知らせを受けた瞬間に工藤が事故に見せかけて殺したことを直感した。夫の死後、1億9000万円もの保険金がかけられていたことで保険金殺人が疑われ、警察も事件性があるとみて捜査を開始した。だが、放火の証拠は見つからず、立件することができなかった。
黙秘は被告人の権利であろうが、工藤に対する判決は一般の常識からは乖離した判決といえるだろう。まるで、法律家の言葉遊びのようである。無辜の少年の命が無残に奪われたことの重みの方が黙秘権よりもはるかに重大で、札幌高等裁判所は真実を明かす基本的なことを忘れている。工藤は2002年5月2日、刑事補償1160万円の請求を札幌地裁に起こした。 同年11月18日、札幌地裁は請求の約80%に相当する930万円を支払う決定をした。