「白暁燕誘拐殺人事件」とは、1997年に台湾で起きた「台湾史上最大の誘拐事件」と言われる凄惨な事件である。白暁燕は1980年6月23日、台湾の女優や歌手として活躍する白冰冰のひとり娘として、日本人漫画原作者の梶原一騎との間に台湾で生まれた。冰冰は暁燕が生まれる前に梶原と別居し、帰国したため、暁燕は冰冰の手元で育てられた。成長するにしたがって、有名人である母親とともにテレビ出演する機会も増え、タレントとして将来を嘱望されていた。

しかし、儒教的世界では父親が日本人であることは日系と強く意識されるため、母である冰冰は娘をことさら台湾の普通の子女として育てようとし、ボディーガードなどは一切付けず、一般交通機関で高校に通学させていた。これが裏目に出て、日系を嫌悪する外省人系のマフィアにとって、格好の標的となった。1997年4月14日、私立醒吾高級中学2年に在学中の暁燕は、通学途中に誘拐された。犯人グループは、直後から輪姦・暴行を加えるとともに、左手小指を切断した。

 

犯人グループは焦燥感を煽るため、母冰冰の元に暁燕の左胸を露出させ半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、身代金500万米国ドルを要求した。冰冰はなんとか身代金全額を揃えた。ところが、当時の李登輝総統の政党内におけるライバルで、台湾における嫌日派外省人の巨頭で、なおかつ次期総統を視野に手柄を狙う行政院長(日本の首相にあたる)であった連戦の差し金で、警察からマスコミに事件の情報がリークされ、中華日報と大成報がスクープ報道した。

 

4月18日と4月19日に行われた交渉により取引場所も決定したが、犯人グループが身代金を受け取りに現れることはなかった。白冰冰は台湾では人気歌手であり、その娘である白暁燕が誘拐され、小指を切り落とされて送りつけられるという異常な事件に台湾全国民の耳目が集まった。警察からのリークによりマスコミは情報をつかんでおり、引き渡し現場にあらかめ取材陣が殺到し、上空には何機ものヘリが飛び回るという状況であり、犯人グループは身代金受け取りを断念した。

 

現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は戻ってきたグループの一味から身代金受け渡しの失敗を聞いて絶望し、泣き叫んだという。しかし、激昂した犯人グループは身代金を奪取できなかった腹いせに暁燕に対して、凄惨な輪姦・集団暴行を加えて、時間をかけて惨殺し、遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。後の司法解剖では、彼女の腹部内に500ccの出血が確認され、切断された小指には指の根元に細い針金で止血されていた。

 

一度目の身代金の受け渡し失敗の後に殺害された暁燕だが、犯人グループは暁燕が生きているように見せかけ、2度目の身代金の受け渡しを指定した。だが、この時も取引現場にマスコミの取材陣が駆けつけ犯人グループは姿を見せず、逮捕に失敗にしている。マスコミが一度目の失敗を顧みることもなく、被害者の命よりスクープを重視した結果だ。日本には誘拐事件が発生すると、犯人を刺激しないよう報道を控える協定があるが、当時の台湾には情報協定が存在しなかった。

 

2度目の身代金受け渡し失敗から2日後の4月25日、警察は犯人グループのアジトを突き止めて急襲し、4人の共犯を逮捕したが、主犯格の林春生、高天民、陳進興の3人を捕り逃がした。既に暁燕は殺され、遺体も処分されていたため、保護は無論、遺体の回収もできなかった。主犯格らの身元が割れ、全国指名手配となったことから、翌26日から27日にかけて、犯人グループの身内や冰冰がテレビを通じて、暁燕の開放と彼らの自首を求める姿が台湾全土で放送された。

 

4月28日、暁燕の原形を留めない無残な全裸の遺体が発見された。発見者は当初、ブタの死骸と思ったという。死因は窒息だったが、暴行によって肝臓は破裂しており、肋骨もほとんど折れていた。顔も髪の毛はまばらにされ、両目は虫に食われていた。首を絞められたために舌は伸びきり、報告書に「処女膜断裂」とあるように激しい強姦の痕跡も歴然としており、長年にわたり多くの死体を検分した検視係官が「これほど凄惨な遺体を見たことはない」と衝撃を受けるほどであった。

 

遺体発見時の写真を一部のメディアが入手して掲載し、日本の写真週刊誌にも転載された。身代金受け渡しの際のマスコミの不手際が殺害の原因になったため、国民からのマスコミへの批判が高まり、白母娘の住んでいた家の付近には、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。暁燕の葬儀では、頭にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。当時、総統を務めていた李登輝は怒りの余り「犯人らを発見次第問答無用で射殺せよ」との命令を発令した。

 

8月19日、台北市内で主犯格3人と警官隊との間で銃撃戦が起こり、警官2人が死傷したが、林も6か所に銃弾を受けて自殺。残る高と陳は10月23日、台北市の整形外科病院で顔を強引に整形させ、女性看護師を強姦した後、彼女と医師夫妻の3人を射殺して逃亡した。高は11月17日、警官隊に包囲され、再び銃撃戦の末、自殺した。11月18日、最後に残った陳は南アフリカ大使館に、立て籠もったが、民進党の謝長廷の説得を受けて、翌日に投降し逮捕された。

 

1998年1月22日、板橋地方裁判所は陳に対し、5件の誘拐・殺人・強盗に対し、死刑5回を言い渡した。別の暴行事件などで懲役刑合計59年9か月を下したが、白冰冰はその判決に対し、「正義は実証されなかった」と述べて、納得しなかった。日本の最高裁判所に当たる高等法院も1999年3月16日に遺族に対し、台湾史上最高額の1億7130万台湾元(当時のレートで約6億3000万円)の賠償命令を言い渡した。1999年10月6日に陳の死刑が執行された。