16世紀にドイツのベードブルグで起こった人狼事件を記録した資料によると、この頃のケルンとベードブルグでは、1564年から1589年にかけて、巨大な狼が出没し、野道や町外れに出た人々や家畜を襲って殺す事件が起きていた。特に1580年代後半なると、殺人的な狼男の噂が飛び交い始めていた。ある日、狼に襲われながら少女たちが運良く生き延びたことをきっかけに、住民は反撃に出て狼を捕えることを決意する。
 

住民らは多くの獰猛な犬をけしかけて遂に狼に不意打ちを食らわすことに成功した。追いつめられた狼は驚くべきことに、ステッキを片手に持つ、身なりの良い格好をした紳士に変身した。この紳士は、その界隈の人々にも、よく知られた人当たりの柔らかい男性であった。彼の名はペーター・シュトゥンプといって、かなりの伊達男であった。住民らに捕えられたペーターは拷問されることを恐れて自身の恐るべき悪行を洗い浚い白状した。

 

ペーターは幼い頃より悪事を好んで12歳から邪悪な所業をなし、魔術に耽溺し、多くの地獄の悪鬼と交わった。ペーターは野獣に変身して殺戮を楽しみたいと望み、悪魔は巨大で屈強な狼に変身できる皮帯を彼に授けた。これを手にして以来、ペーターは約15年間に渡って、14人の子供と2人の妊婦を殺して食べ、悪魔から与えられたサキュバスと性交したことを自白した。また、自らの娘と近親相姦を行っていたことも告発された。

 

殺害した妊婦の胎児について、ペーターは「熱かったので喘ぎながら生で食べた」と証言し、「彼ら(犠牲になった14の子供)を“可憐なモーゼル”と表現していた」と述べている。そして、驚くべきことに14人の子供の犠牲者のひとりは、おそらく彼自身の息子であったとみられている。裁判においてペーターは、これらの罪状で、すべて有罪になり、死刑を宣告された。ペーターの愛人と娘は彼の犯罪を隠避したとして、同じく死刑が言い渡された。

 

1589年10月31日、ペーターの処刑法は歴史に記録された中でも最も猟奇的なもののひとつと言える。彼の死刑執行人は彼を車輪に縛り付け、剣でゆっくり彼の肉片を引き裂いた。 こうした拷問刑の途中で、執行人は斧の刃の反対の鈍い側で彼の手足を打ち砕いた。これは、狼男が死から蘇っても狩りをすることができないようにするためだった。ペーターの処刑が行われている間、彼の愛人と娘は同時に火炙りにされていた。

 

 

ペーターの死刑執行人が彼の頭を切り落とし、ペーターの遺体は彼の家族と並べられた。彼の頭部はペーターの犯罪を模倣しようとするものに警告するため、拷問の輪と狼の姿とともに展示された。悪魔から授かったという「狼に変身できる皮帯」は拘束される前に谷に捨てたとペーターは主張したが、捜査の結果、その存在は実証されなかった。その代わりに狼の毛皮で作られた毛皮を着て彼が犯行に及んでいたことが証明されている。

 

犯罪が発覚する以前のペーターの記録は乏しく、彼の正確な生年月日は不明だが、歴史の研究者はドイツの農村地域であるベートブルクの裕福な農民の家庭に西暦1545年から1550年頃、生まれたと推定している。ペーターが住んでいた地域の住民は彼が立派な紳士であり、富と影響力を持ち、尊敬と信頼を集めるふたりの子供の父親であると信じていた。しかし、これはペーター・シュトゥンプの表面の顔に過ぎなかった。 

 

16世紀にドイツのベードブルグで起こったこの「人狼殺人事件」を大衆に知らしめた当時の図版のいくつかには、ペーター・シュトゥンプは巨大な狼ではなく、誰もが想像する直立した人間の下半身を持った狼男の姿で描かれている。但し、中世のキリスト教圏では、その権威に逆らって「狼人間」に仕立てられ他人々がいた。1520年代から1630年代にかけてフランスだけで3万件の狼男関係の事件が報告されていることにも留意したい。