彼女に与えられたミッションはこうだ。何重にも張り巡らされた防御網を突破して、敵の隠れ家の奥深くに侵入する。そして、敵に気づかれないように、巨大な敵の体内の目標物を奪う。それで終わりではない。さらに防御網をかいくぐって脱出し、帰還しなければならないのだ。こんなミッションを成し遂げるヒロインを主人公にすれば、ハリウッド映画顔負けの大作となること間違いない。このヒロインこそが私たちの血を吸いにやってくるメスの蚊である。

 

蚊はメスだけが血を吸うのである。蚊はメスもオスも、普段は花の蜜や植物の汁を吸って暮らしている。実に穏やかな昆虫なのだ。ところが、あるときメスの蚊は吸血鬼となる。メスの蚊は卵の栄養分として、タンパク質を必要とする。しかし、植物の汁だけでは十分なタンパク質を得られない。そのため、動物や人間の血を吸わなければならないのである。憎たらしい吸血鬼も、その正体は、わが子のために命を懸けるいちずな母親の姿だったのである。

 

それでは、オスの蚊はどうだろうか。卵を産まないオスの蚊は命の危険を冒して、人間や動物の血を吸う必要はまったくない。家の外では、無数のオスの蚊が集まって飛びながら、蚊柱を作っている。オスの蚊は集団で羽音を立ててメスの蚊を呼び寄せる。羽音に魅せられてその蚊柱にやってきたメスの蚊はその中から好みのパートナーを選び、交尾をするのである。そして、交尾を終えたメスの蚊は決死の覚悟で家の中へと向かっていくのである。

 

蚊の一生は短い。バケツや空き缶などに溜まったわずかな水があれば蚊は産卵できる。メスが水面に産みつけた卵は、数日で孵化した後、1~2週間という短い間に成長して成虫となる。僅かな水が干上がるまでの間に、蚊は飛び立つことができる。そして、メスの蚊は人間や動物の血を吸って卵を産む。これを繰り返しながら、蚊の成虫は運が良ければ1か月程度生きる。蚊は、1年間の間に、このサイクルを繰り返して世代を更新していく。

 

私たちの身の回りにいる蚊は、主に茶褐色のアカイエカと白黒模様のヒトスジシマカである。ヒトスジシマカは庭の藪などによく潜んでいて、別名を「やぶ蚊」と言う。一方、アカイエカは漢字で「赤家蚊」と書く。その名前のとおり、果敢に家の中に侵入してくるのである。人間の血を吸う蚊は我々からすると、何とも嫌な害虫だが、蚊の気持ちになってみるとどうだろう。しかも、わが子のために決死の覚悟で人間の家に侵入するのが蚊の立場である。

 

まず、家の中に侵入するというのが、そうとうに困難を極める。開けっ放しだった昔と違って、機密性の高い現代の家では侵入経路が限られる。家の網戸をかいくぐるか、人間がドアや窓を開閉したのと同時に侵入するくらいだろうか。何とか家の中に侵入できたとしても、蚊取り線香や虫よけ剤の罠が待ち受けている。人間にとっては何でもないが、小さな蚊にとっては、命を奪う強烈な毒ガスである。部屋にたどり着いてからが、さらに大変だ。

 

まず、ターゲットの人間を見つけなければならない。蚊は人間の体温や吐く息から人間を感知する。そからが大仕事である。人間がうたた寝でもしていればいいが、そうでなければ、気づかれないように人間に近づかなければならない。もし、飛んでいるところを見つかれば、両手でピシャリと打たれて、一巻の終わりだ。そして、人間の肌に着地し、血を抜き取らなければならない。もちろん、すべての作業を気づかれることなく完了させなければならない。

 

血を吸うために特殊な進化を遂げた蚊にとっても、血を吸う作業は、けっして簡単なことではない。肌に着地するだけでも相当に危険なのに、さらに肌に針を突き刺さなければならないのだ。もちろん、姿は丸見えで隠れる場所はない。何とかターゲットの肌に着地した1匹の蚊が、気づかれないように、ターゲットの腕に針のような口を挿し込んだ。蚊の口は1本の針のようになっていると思われているが、実際には、6本もの針が仕込まれている。

 

彼女が最初に使うのは、6本のうちの2本の針である。この針の先端には、鋸のようなギザギザした刃がついている。昔、忍者が建物に侵入する際に「しころ」という小さな鋸を使ったというが、ちょうど、そのような感じだろう。そういえば、忍者の世界にも「くノ一」という女忍者がいたらしい。彼女は、2本の針についた刃をメスのように使って人間の肌を切り裂く。気づかれないように、である。別の2本は肌が開いた状態で固定させるためのものである。

 

人間の手術では、開口部を「開創器」という器具で固定するが、そんな感じだ。そして、開かれた口に残りの2本の針を挿し込む。このうち1本は血を吸うためのもの。もう1本は唾液を血管の中に注入していく。この唾液の中には、麻酔成分が含まれていて、肌を切り開いた痛みを感じ難いようになっている。さらに、唾液には血液の凝固を防ぐ役割もある。もし、この唾液を注入しなければ、血液が蚊の体内で固まって、蚊は死んでしまう。

 

まさに命懸けのミッションである。血を吸う作業は、どんなに急いでも2~3分はかかる。メスの蚊にとっては、とてつもなく長い時間に感じられることだろう。昔の泥棒で言えば、家人に気がつかれないように、金庫のダイヤルを回しているときのような心境だろうか。スパイ映画に例えれば、敵のアジトに侵入し、ホストコンピューターにログインしてデータを抜き取るときのようなスリルだろうか。何とか血を吸い終わったとしても、このミッションは終わりではない。

 

本当に大変なのは、ここからである。蚊の幼虫であるボウフラは水中で生活している。そのため、メスの蚊は水の上に産卵しなければならないのである。しかも、水道水のようなきれいな水では、ボウフラが育つための栄養分がない。有機物があり、ボウフラの餌になるようなプランクトンが湧いているような汚い水でなければならないのだ。そこで、メスの蚊は自ら水を吸ってみて、ボウフラが成長するのに適した水かどうかを確かめ判断してから産卵する。

 

しかし、そのような水がある場所は清潔な家の中にはない。そこで今度は、産卵のために、家の外へと脱出しなければならないのである。この物語の主人公である彼女も、血を無事に吸い終わったようだ。しかし、ここからがいよいよ物語の後半である。彼女は見事脱出に成功し、産卵をするという生物にとって最も重要なミッションを成し遂げることができるだろうか。何しろ、家に侵入することも難しいが、そこから脱出するのは、もっと難しいのだ。

 

家に侵入するときには、偶然に網戸の隙間を見つけたかもしれないが、再び、同じ隙間にたどり着ける確率はゼロに近い。そうだとすれば、新たな場所を見つけなければならないが、現代の家は機密性が高い。そう簡単に脱出できる場所が見つかるようには到底思えない。それだけではない。蚊の体重は2~3mgだが、血を吸った後は、5~7mgにもなる。重い血液を抱えてふらふらと飛びながら、人間に打たれないように帰還しなければならない。

 

何という困難なミッションなのだろう。血をたっぷりと体に詰め込んだ彼女は重い体でふわりと空中へ飛び立った。しかし、重い血液のため体がふらついてなかなか姿勢が安定しない。思うように飛べないのだ。それでも彼女は、懸命に翅を動かした。こんなところで諦めるわけにはいかない。彼女のお腹の中には、新たな命が宿っている。何とか出口を見つけなければ…、どこかに出口はないか。そのときである。彼女は、かすかな空気の流れを感じた。

 

もしかすると、どこかの窓に隙間があるのかもしれない。もし、映画のワンシーンなら彼女は、ほくそ笑むのだろう。だが、この一瞬の喜びが彼女に一瞬の油断をもたらしたのだろうか。「ピシャリ」切り裂く大きな音がして、彼女の意識はなくなった。ふらふらと飛んでいる蚊を見つけて、誰かが平手を打ったのだ。その手のひらには、真っ赤な血がべったりとついている。人間は、ペチャンコになった彼女の体をティッシュで拭きると、それをゴミ箱に放り捨てた。

 

稲垣栄洋 : 静岡大学農学部教授