カルロス・エドゥアルド・ロブレド・プッチはアルゼンチン犯罪史上最凶の犯罪者として知られ、「黒い天使」や「死の天使」と称されたシリアルキラーである。カルロスは1952年1月22日、ブエノスアイレスで、ゼネラルモーターズの技術者であった父親とドイツ系移民の母親のもとに生まれた。1956年、カルロスが4歳のとき、両親とともにブエノスアイレスのボルゲス・ストラに引っ越してきた。そこで金物店の上に1階のアパートを借り、逮捕までその家で過ごしていた。

 

カルロスが誕生したとき、彼の父は非常に喜び、日記に「息子のカルロス・エドゥアルドが生まれた。彼は美しく誰もが母親にそっくりだといってくれる」と綴っている。その頃の彼は、ドイツ人の母親から受け継いだ白い肌と赤髪が印象的だったという。そして、彼の両親によると、カルロスはとても行儀の良い子どもだったと述べている。後に彼の両親は、カルロスを言葉で叱るだけで、素直に従う子どもだったので、カルロスに対して手を上げることはなかったと述べている。

 

ところが、学校でのカルロスの評判は両親の「幼少時代のカルロスは恥ずかしがり屋だった」という説明とまったく異なっていた。学校でのカルロスのニックネームは「ボイルドミルク」で彼は頭が良いが、素行がわるく暴力的という意味であった。数年後、カルロスが10代の半ばにもなると、バイクを盗むなどの窃盗を繰り返すようになったことから、就学していた学校を退学させられ、ロスホルノスにある少年矯正施設であるホセマヌエルエストラーダ美術工芸学校に送られた。

 

 カルロスは1971年1月、共犯者ホルヘ・アントニオ・イバニェスとバイクショップを強盗し、2台の自転車を盗んだ。また、彼ら店の引き出しの中に32口径のピストルを見つけた。それは彼の将来の殺人のための武器になった。カルロスは1971年3月15日、ディスコ・エナモールで35万ペソを盗み出した。逃走する際に、カルロスはピストルを使い、ディスコの所有者と見張り人を殺害した。これが後に「死の天使」と呼ばれるようなったカルロスの初めての殺人になった。

 

1971年5月9日午後4時頃、カルロスとイバニェスはビセンテ・ロペスのメルセデス・ベンツのスペアパーツ店に押し入り40万ペソを強奪した。その際、彼らは赤ん坊を連れたカップルを見つけた。カルロスはアベックのうちの男性を射殺し、女性も撃たれて負傷した。イバニェスは負傷した女性を強姦しようとしたが、未遂に終わった。この女性はこの試練を乗り越え、後に裁判で証言している。彼らは赤ん坊が泣いるベビーベッドも撃ったが、赤ん坊は無事だった。

 

1971年5月24日、ふたりはスーパーマーケットで夜間監視員を殺害。1971年6月13日には、相棒のイバニェスは盗難車の後部座席で16歳の少女を強姦。カルロスはその後、その少女を5回撃って殺害した。1971年8月5日の深夜、カルロスとイバニェスは逃走中にブエノスアイレスの交差点で衝突事故を起こし、助手席にいたイバニェスは即死した。カルロスは無傷で現場から逃走を果たした。カルロスは仲間の死に何も感じなかったと報告されている。

 

1971年11月15日、カルロスは新しい共犯者であるエクトル・ソモザと手を組み、ふたりでブローニュのスーパーマーケットを襲撃。襲撃には数日前に武器庫強盗で入手していた32口径のアストラピストルを使用。1971年11月中旬、ふたりは2軒の自動車販売店に押し入り、100万ペソ以上を盗み、警備員を殺害。1972年2月1日、カルロスとソモザは金物店に押し入り警備員を殺し、盗んだ鍵で金庫を開けようとしたが、金庫は開けられなかった。

 

この時、焦るカルロスは何かに驚いて錯乱し、相棒のソモザを撃ち殺してしまった。すると、カルロスは警察による遺体の身元確認を防ぐため、無慈悲にも死亡した共犯者であったソモザの顔を、ブロートトーチを使って焼いている。そして、同じブロートーチでカルロスは金庫を開け、金を奪い取って逃走した。1972年2月4日、ソモザのズボンのポケットから身分証明書が見つかったたから足がつき、カルロスは逮捕された。彼はちょうど20歳になったばかりだった。

 

逮捕されたカルロス・エドゥアルド・ロブレド・プッチの立証された罪状は11件の殺人、1件の殺人未遂、17件の強盗、1件の強姦、1件の性的暴行、2件の誘拐、2件の窃盗の計35件だった。ところが、カルロスは逮捕された後の1972年7月7日、裁判を待つ間に拘留されていたオルモス刑務所から逃げ出し、全国を一時的に動揺させた。しかし、ブエノスアイレスのオリボスで警官に発見され、再び逮捕された。1980年、裁判で終身刑の判決を下された。

 

 

「黒い天使」や「死の天使」と呼ばれたアルゼンチンの美しい殺人鬼少年であったカルロスは、2019年8月劇場公開された「永遠に僕のもの」という映画のモデルになっている。そして、現在でもカルロスは刑務所に収容されている。彼は1990年代半ばから2008年までの間に仮釈放を求め続けているが、釈放申請は一貫して認められていない。そこで、彼は自分を薬殺刑にするよう要求したが、アルゼンチンには死刑がないことから、その要求も拒否された。