正に鬼畜の服部純也

 

2002年(平成14)、静岡県の三島市でアルバイトからの帰宅途中であった女子大生が男にクルマに連れ込まれて、山中において強姦後、生きたまま頭から灯油をかけられて焼き殺されるという実に凄惨で痛ましい事件が起こった。この事件は発生場所の地名から「三島女子短大生焼殺事件」と呼ばれている。何の罪もなく、明るい将来がある女子大生がなぜこのような非人間的で残酷な事件に巻き込まれたのだろうか。犯人どのような男だったのか。

2002年1月22日、山根佐知子(19歳)さんは午後11時前に、バイト先である三島駅前の居酒屋を出て、国道136号線を自転車に乗って自宅に向かって走っていた。すると、彼女と同じ方向でクルマを走行させていた服部純也(犯行時29歳/逮捕時30歳)が彼女を見かけ、可愛いかったことから声をかけたが、無視された。だが、執拗に服部はクルマで先回りして待ち伏せ、自転車の前に立ちふさがり、逃げようとした彼女を車の後部座席に押し込んだ。

服部は勤務先の建設現場の事務所からクルマで10分程度の山中に山根さんを連れて行き、「ぶっ殺すぞ」などと脅迫し続けた。彼女が脅されて恐怖心から身がすくんで抵抗できなくなったと認めた服部は強姦の犯行現場となる山中(田方郡函南町軽井沢字立洞)で車を止めた後部座席に移動し、山根さんを全裸にして強姦した。山根さんは理不尽に強姦されたことで憔悴し、服を着るのが精一杯で声を出す気力もないほどの状態に陥ってしまった。

服部はそのような状態だった山根さんを後部座席に監禁したまま三島市内に戻った。服部は当初「街中の人気のない場所で彼女を解放しよう」と考えていた。ところが、途中で覚醒剤仲間から「覚醒剤用の注射器を持って来てほしい」と電話が入り、服部は自分も覚醒剤を打ちたくなり、山根さんの解放場所を探す一方で「山根さんを解放すれば、警察に通報されて逮捕され、刑務所に戻ることになる」と不安を募らせたことから、山根さんを殺害しようと考えるようになった。

服部は殺害する方法として「山根さんを山に埋めるか、海や川に沈めるなどして殺害・遺棄しよう」と考えたが、適当な場所が思い浮かばないまま彼女を閉じ込めて、覚醒剤仲間から依頼された注射器を取るために実家(三島市若松町)に立ち寄った。その際、実家の玄関先に灯油入りのポリタンクが置いてあったため、これを目にした服部は「被害者に灯油をかけて焼き殺そう」と思いつきポリタンクを注射器とともに持ち出して、服部は人気のない場所を求めて車で走り回った。

 

 

翌23日午前2時ごろに殺害現場(三島市道山田31号道路拡幅工事現場)へ到着し、車を駐車した服部は山根さんが逃げ出したり、声を上げたりしないよう両手首を後ろ手に縛り、口もガムテープで塞いだ。殺害の準備を整えると、服部は彼女の腕を引っ張って降車させ、背中を押して歩かせ道路に座らせた。服部は車内からポリタンクを持ち出し、山根さんの頭上から灯油を全身に浴びせかけ「火、点けちゃうぞ」などといって脅したが、彼女は身動きせず声も上げなかった。

そのため服部は「山根さんは警察に通報しようと考えているのではないか?」と不安に駆られ、「早く被害者を始末して覚醒剤仲間のところに向かい、自分も覚醒剤を打ちたい」と思った。いったんは殺害を躊躇した服部ではあったが、発覚を恐れて、灯油の掛かった山根さんの後頭部の髪の毛にライターで点火し、炎が燃え広がっていく様子を確認した上で、その場から逃走した。火を点けられた彼女は火だるまになり、数メートル離れたコンクリートブロックの間に倒れ込んで息絶えた。

犯行後、服部は覚醒剤仲間と合流する前に実家へ戻り、殺害に使用した灯油入りポリタンクを元の場所に戻したほか、付着した灯油の臭いが覚醒剤仲間らに気付かれないよう手を洗った。そして、注射器を覚醒剤仲間に届け、自らも覚醒剤を使用した。服部は事件後も普段通り建設会社に出勤し、退勤後は山根さんの自転車を狩野川に架かる橋の中央付近から投棄したり、彼女の携帯電話や財布などの所持品をコンビのごみ箱に捨てるなどして、証拠隠滅を図った。

服部が山根さんを殺害してから約30分後、現場付近を通りかかったトラック運転手が黒い塊から炎が立ち上がっているのを発見し、近づくと強い異臭がして炎の中から足が見えたため「人だ」と気付いて110番通報した。通報を受けて静岡県警三島警察署の署員が駆けつけた。警察は指紋から身元を割り出すと共に、粘着テープの痕跡が衣服に残っており、灯油やライターなどが現場に残されていないことから、静岡県警は生きたまま火を点けた殺人事件と断定し、捜査を開始した。

捜査の結果、事件から5か月経過した7月23日、服部のDNAの型が山根さんの体内にあった遺留物のDNA型と一致したことから、山根さんを殺害した事件から2日後に起こした自動車の当て逃げで有罪判決を受け刑務所に服役していた服部を容疑者として逮捕した。服部は取り調べに対し「事件の夜、山根さんとコンビニで知り合い合意の上で性行為をした」などと容疑を認めなかったが、最終的には犯行を自供し、「申し訳ないことをした」と反省の言葉を述べていた。

こんな無慈悲で残酷極まりない犯罪を起こした服部の生い立ちは裁判でも情状酌量の余地として証言されている。彼は1972年2月21日、静岡県三島市で生を受けている。家庭環境は決して裕福とは言えず、服部は貧しい家庭で育った。貧しいにもかかわらず4人兄弟であったことから食うにも困る生活を送っていたといわれる。服部の両親も子どもに対して、関心は薄く、服部は十分な愛情を得られない環境に長い間、身を置くうちに人として、善良な人間性を失ったといわれる。

服部は中学生なると非行に走り、3年生の時に初等少年院へ送致され、少年院入院中に中学校を卒業した。そこからは犯罪塗れの生活で、初等少年院を仮退院後に鉄筋工として働くも、17歳の時に窃盗等の非行で中等少年院送致された。その後、土木作業員として働くも窃盗で保護監査処分になった。 20歳の時に覚せい剤取締法違反で懲役1年6か月執行猶予4年の有罪判決を受け、執行猶予期間中に現金5千円を奪う強盗傷害事件を起こし服役している。

静岡地検は2002年9月、服部を殺人、逮捕、監禁で起訴し、死刑を求刑したが、静岡地裁が2004年1月に下した判決は、無期懲役だった。裁判長は死刑を回避した理由について、「周到な計画に基づく犯行ではないこと」や、「反省の態度を示していること」を上げ、「幼少期の劣悪な生活環境で育ったこと」は情状酌量の余地があるとした。量刑不当を理由に判決を不服とし静岡地検沼津支部は東京高等裁判所へ控訴、被告側も量刑不当として控訴した。 

 

東京高裁の田尾健二郎裁判長は弁護側の主張を否定した上で、「被害者は生前、誠実に生きて努力を重ねてきたにも拘らず、被告人の目の留まってしまったばかりに犯行の犠牲になった。体を縛られた状態で焼き殺された被害者の無念、苦痛はいかばかりかと察せられ、深い哀れみを覚えざるを得ない。被害者遺族が強く死刑を望むのは当然」と指摘し、「被告人に斟酌すべき事情を最大限に考慮しても、罪責は余りにも重大で、極刑をもって臨むほかない」と述べた。

 

弁護側はこれを不服として控訴したが、2008年2月に控訴を棄却され、翌月に死刑が確定した。しかし、最高裁判所が1983年に永山則夫連続射殺事件の上告審判決で死刑適用基準を示した「永山基準」以降では、殺害された被害者数が1人で、かつ経済的利欲目的ではない殺人事件の刑事裁判において、殺人で服役した前科のなかった被告人に死刑判決が下されたことは異例で、最高裁もその死刑判決が支持されて確定した事例も極めて特異なものだった。


死刑囚服部は死刑執行まで東京拘置所に収監されていたが、福島瑞穂参議院議員が2011年、実施したアンケートに対し、「もし、再び社会に出られたなら悪いことをしないという自信がある。死刑執行の恐怖に比べれば一般社会で真面目に生きることなど簡単だ。被害者遺族と同様に死刑囚も苦しんでいる。遺族とは同じ立場ではないが、『死刑囚の苦しみ』も分かってほしいし」などと回答していた。死刑確定後、4年余り経った2012年8月に服部の死刑が執行された。