イルゼ・コッホは1906年9月22日、農場経営者の父の娘マルガレーテ・イルゼ・ケーラーとして、ドイツのドレスデンに生まれた。彼女は子ども時代、まったく目立たない子で、教師は彼女を「礼儀正しく、幸せそうである」と評している。イルゼは15歳で学校を卒業し、工場に仕事に働きに行った。彼女はドイツの経済がまだ第一次世界大戦におけるドイツの敗北から回復していない状況下であった頃に徐々にナチズムに関与し始めた。

 

元々はザクセンハウゼン強制収容所において看守兼秘書として仕事をしていたところ、1936年所長で親衛隊幹部のカール・コッホと結婚し、翌1937年ブーヘンヴァルト強制収容所に夫に随行した。後にサディストで淫乱という評判が立ち、その残酷さから「ブーヘンヴァルトの魔女」と呼ばれたイルゼにとって、収容所所長夫人という地位で得たものはまさに楽園であった。イルゼが初めにしたことは、囚人から不当に1億円を接収した。

 

そのカネを使って、自分用の屋内乗馬場を囚人に建設させたが、気に入らないことあるとイルゼは建築作業にあたる囚人を乗馬用ムチで打ちのめし、約30人の囚人に致命傷を負わせ、そのなかには死ぬものもいた。イルゼは乗馬場の完成後、毎朝乗馬を楽しんだが、その間、楽隊に音楽を演奏させていた。そして、夫とイルゼはブ-ヘンヴァルト強制収容所の敷地内に建てたしゃれた家で、贅沢の限りを尽くし乱れた生活を楽しんだ。

 

囚人は飢餓や病に苦しんでいたが、コッホ夫妻は豪華な食事と酒を楽しみ、ナチスの親衛隊たちと、自宅で乱交パーティーを開いたともいわれている。夫が収容所の所長の地位にあることを楯に、イルゼの強制収容所での残虐さは凄まじく、囚人に対するサディスト的な拷問と好色さで知られた。イルゼは自らの拷問で囚人が死ぬと、その遺体から皮膚を剝ぎとり、ランプシェードやブックカバー、手袋を作るなどの常軌を逸した行動をとった。

 

イルゼが作らせた、囚人の内臓を樹脂で固めた標本

 

コッホ家の別荘で庭師として働いていた元収容者のカート・グラスは、裁判でこう証言している。「イルゼ・コッホは人間の皮膚で作られたランプシェードを欲しがっていた。ある日、彼女はユダヤ人囚人全員の服を剥ぎ取り、整列させた。彼女は気に入った入れ墨の囚人を見つけたら、乗馬用ムチでそれを指した。選ばれた囚人は注射で薬殺し、皮を剥いで収集した」 こうした行状のため、親衛隊員達からブーヘンヴァルトの魔女と呼ばれた。

 

イルゼはナチスの医師や看守を愛人に持ち、人体の部位や臓器の収集をした。また、彼女は人間の干した頭を作ることを実験し、また保存された臓器を集めた。肺、脳、心臓、肝臓などはすべて保存され、彼女の家や他の看守の家の装飾品として使用された。しかし当時の彼女にとって最大の関心事は、受刑者を性的に挑発し、拷問することだった。彼女は肌を露出した服装で、飢え、拷問された男性囚人の周りで性的に振る舞った。

 

またイルゼは、彼女自身の娯楽のために、囚人同士に性的行為を強制した。他にも飼い犬を女囚にけしかけたり、捕虜にレイプさせたりと、性虐待の噂も絶えなかった。また収容所の生存者は戦犯裁判で、ユダヤ人囚人の子どもをガス室送りにする時、彼女はいつも興奮しているようだったと証言している。夫のカール・コッホは、親衛隊の金を自分の蓄財としていたことがわかり、賄賂と収賄で有罪判決を受け、1945年にナチスに処刑された。

 

夫カール・コッホが収容所における悪事で告発されたとき、イルゼも横領着服容疑で裁判にかけられ投獄されたものの、証拠不十分で無罪となる。その後、ルートウィヒスブルクにいた3人の子どもを含む家族と一緒に生活していたが、彼女は1945年6月30日に米国当局によって捕えられた。1947年には、元ダッハウ強制収容所で連合軍法廷が開かれたが、その中で最も悪名高いドイツの戦争犯罪者にされたのは、疑いもなくイルゼだった。

 

イルゼの裁判中、人々はふたつの事から、大きなショックを受けた。イルゼは裁判の最中、41歳のでありがなら妊娠8か月であることを発表した。彼女は裁判の前に米国人尋問者(その多くはユダヤ人だった)を除いて、男性との接触がなかった。つまり、彼女は尋問者を誘惑し関係したということになる。もうひとつは1945年のニュルンベルクの国際軍事法廷で、ソ連はイルゼ、そしてナチスの親衛隊が人間の脂肪から石鹸を作ったと告発したことだった。

 

実際に、人の脂肪から作られたとされる石鹸が法廷に陳列された。マスコミは死刑を免れるために彼女が故意に妊娠したと考えた。ダッハウの法廷記者によると、イルゼはブーヘンヴァルト強制収容所時代には、ナチ親衛隊将校や何人かの囚人と性的関係を持ったという。1951年1月、裁判でイルゼは囚人虐待で、終身刑を宣告された。彼女が投獄中に妊娠した父親が誰だか分からない男の子は彼女の他の子どもたち同様、里子に出された。

 

刑務所にいる間、イルゼは何度も控訴を申し立てたが、常に却下され続けた。そして、ついに国際人権委員会にまで抗議をしたが、それも当然ながら認められなかった。イルゼは1967年に、ドイツのアイヒャッハ女性刑務所の独房で、生き残った収容所の囚人たちが自分を虐待するという妄想に捉われたまま自殺した(妄想ではなく、本当に囚人の怨霊だとしても不思議はない)。彼女の遺体は刑務所の墓地にある何の印もない墓に埋葬された。