１９８６年１０月３１日、デンマークのコペンハーゲン港で昼食を取っていたタクシーの運転手が、海面に漂っていた黒いプラスティック製のバッグを発見した。中身を調べると人間の下半身や脚の一部が詰められていた。デンマーク警察は潜水作業員も投入し、港とその周辺の海中を徹底して捜索した。１１月７日、最初の発見場所から約１．５km離れた海底から同じくバッグに詰められていた頭部や腕の部分も発見されたことから被害者の遺体全体が揃った。
デンマーク警察がアジア系と見られる遺体の歯形や血液型などの特徴を、国際刑事警察機構を通じて各国に手配すると、翌年６月に日本の警察庁が遺体とよく似た特徴を持った女性を見出した。現地から取り寄せた指紋をその女性のものと照合すると一致したために、急遽日本警察も捜査に協力することになったのである。女性は当時、東京都葛飾区東新小岩に居住していた２２歳の無職女性で、海外のピル治験ツアーに参加して事件に巻き込まれた。
被害者の参加したピル治験ツアーとは、日本国内でピルを販売するため西ドイツ（当時）のフライブルクに本社がある製薬会社による治験の代行業務とする臨床薬理試験の受託会社が東京に設立した子会社を通じて旅行会社と提携、治験データを集めるために募集したものだった。参加者は被害者を含めた２２歳から３０歳までの女性５名で、目的は同社が開発したピルの新薬を服用し、血中のホルモン分泌状態を検査してデータを収集することだった。
事前の説明会では治験に関する詳しい説明を施して、治験によって何らかの問題が起きた際の同意書も取り付けられていた。拘束期間は約４か月にも及ぶが、その間の渡航費は会社が受け持ち、さらに手当として１日約１万円が支給され、なおかつ現地のドイツ語学校で学習の機会を得る特典も伴っていた。一行は１９８６年５月２０日に成田空港を出発して、６月９日から９月１２日までフライブルク市内にあるホテルに滞在しながら治験要員として過ごした。
治験終了後、他の４名の女性は被害者と別れてヨーロッパ各地を旅して回り、１０月に帰国した。一方、被害者は９月１７日にイタリアへ入国してローマやヴェネツィア、２６日にアムステルダム、２７日にコペンハーゲン、２９日にストックホルム、３０日にオスロ、１０月３日に再びストックホルムとヨーロッパ各地を旅して回った。１０月４日にヘルシンキに入り、そこで｢これからコペンハーゲン経由で南ヨーロッパに旅行する｣と実家に手紙を送ったのを最後に足取りが途絶えた。
現地の警察当局によれば、１０月８日から１５日の間に何者かによって窒息死させられたと見られている。暴行を受けた形跡はなく、血液中から毒物や薬物の反応も出なかった。なお、被害者は都立高校を卒業後に千葉市内の短大に入学するも、１９８３年６月に中退した。その後は家族とともに生活しながら、人材派遣会社の斡旋でセールスのアルバイトなどに携わっていた。また、このピル治験ツアーに参加する前は単独で韓国を旅行していた。
韓国から帰国後も家出同然で関西方面を周遊しており、このツアーに参加することも西ドイツへの出発直前、成田空港へ向かうバスの中で、実家に手紙を書いて知らせただけだった。当時は数年以内に日本国内でピルが販売される情勢にあると見られていたため、日本国内外の製薬会社が開発競争に鎬を削っていた時期でもあった。この治験ツアーを企画した西ドイツの会社も、国内販売に参入するために日本人女性のデータが必要になったという。
しかし、当時の厚生省は「ピルに限らず輸入用の新薬製造承認申請の審査基準においては、国内で日本人女性を対象にした治験データが必要であり、海外での日本人女性の治験データは審査対象とならない」と指摘。厚生省の薬務局は、このケースは違法ではないとしながらも、「海外の製薬会社が治験を行う場合は、国内の製薬会社や大学に依頼するのが通常であり、日本の女性をわざわざ海外に連れ出すなど聞いたことがない」と述べている。
西ドイツ警察はフライングブルクで、同じ臨床薬理試験の受託会社の治験ツアーに参加した身元不明の若い外国人女性が殺害され、死体をバラバラされるという日本人女性が殺害された状況と酷似する事件が１９８２年と１９８５年に２件発生していると発表した。そうなると疑わしい臨床薬理試験の受託会社だが、「被害にあった日本人女性が治験を受けたのは事実だが、治験終了後はいかなる形の接触も持っていない」との声明をだした。
日本の警察庁は関係各国の捜査機関と協力して捜索したが、現在も未解決のままである。４年間で、治験に参加したと思われる女性３人が殺害された事件は迷宮入りかと思われが、２０１７年８月にコペンハーゲンから南に約５０Km離れた海岸で、スウェーデン人の女性ジャーナリストの胴体が見つかった事件で、デンマーク人の容疑者が逮捕された。コペンハーゲン警察は、この事件と関連してピル治験日本人女性バラバラ殺人事件の再捜査を始めた。